萌え豚っていうな!

萌えヲタのことを萌え豚となんの根拠もなく言うのを止めさせることを目的としたブログ。自分で言うことも含む。

ツンデレとはなにか?――「週刊少年サンデー」の系譜から読み解く

 ここ10年のあいだ、オタク向けの二次元コンテンツは、ツンデレヒロインに席巻されていました。

 「灼眼のシャナ」のシャナや、「ハヤテのごとく!」の三千院ナギといった、釘宮理恵が演じたものをはじめとして、数え切れないほどのキャラクターが生まれては消えていったのです。

 これは「異性愛を描いたフィクション」に留まらず、「男性同士の腐れ縁」や「国家外交上のトラブル」といった「現実の切れそうで切れない関係のすべて」にまで及んでおり、それらを「(再解釈すれば)ツンデレとみなせる」という向きまでが現れたのです。

 前島賢というライターが近ごろまとめた「セカイ系」という現象*1にも、これと似たところがありますが、こうした混沌は一体、どのようにして生まれてきたのでしょうか。

あだち充の衝撃

 突然ですが、「野球マンガ」といったら、あなたは何を思い浮かべますか。

 新しいところだと「MAJOR」や、あるいは少しマニアックな名作を選ぶなら「逆境ナイン」「野球狂の詩」といった作品があるわけですが、最大公約数的な回答といえば「巨人の星」と「タッチ」でしょう。

 前者は「週刊少年マガジン」において、1966年から連載が開始されており、「努力」「根性」「血と涙」「ライバルとの死闘」「金」「成功」「男の世界」といった「汗臭いキーワード」に彩られています。

 この作風は「タイガーマスク」などと並び「スポ根(スポーツ+根性)もの」といって親しまれたわけですが、その背景にあったのは「戦後の高度成長(敗戦からの復活)」という社会的条件でした。

 いわば読者は、飛雄馬(ひゅうま)やタイガーマスクといった主人公に自分を重ね、「明日の成功」を夢見ていたわけですが、成長も終わり、バブル景気に突入していく80年代になると、このジャンルは衰退します。

 1981年、「週刊少年サンデー」で「タッチ」の連載が開始されたことは、その象徴ともいえる出来事でした。

 著者の「あだち充」は、もともと別の雑誌で少女マンガを描いてたひとで、このことは「タッチ」の内容にメタファーされています。

 「少女マンガ」というジャンルは、「少女の心境を(石ノ森章太郎が発明した)自由間接話法(ふきだしの外に『心の声』を書き入れること)によって描く」という特徴を持っていますが、これは「タッチ」以前の「野球マンガ」には、決して合わないものです。

 先ほど挙げたキーワード(「ライバルとの死闘」「血と汗と涙」「男の世界」)に象徴されるジャンル、つまり「スポ根マンガ」は、その代表が「巨人の星」であるわけですが、この作品には「ストーリーに絡む女性キャラ」が「1人もいない」のです。

 一方で「タッチ」は、「主人公が野球をやる理由」が「幼馴染の少女を甲子園に連れて行きたいから」という、きわめて「少女中心主義」的なものとなっていて、さすが「フェミニズムの80年代」を象徴するような内容になっています。

サンデーとマガジンの対比

 つまり「タッチ」は、「『少女無視の文脈』から、『少女重視の文脈』へのシフトチェンジ」といった現象を、「内容」「作者の経歴」といった「2つのレベル」において象徴していたのです。

 これは「野球マンガ」の考察ですが、同じことは「探偵マンガ」にも言えます。

 「マガジン」の「探偵マンガ」といえば「金田一少年の事件簿」ですが、この「ヒロイン」である「美雪」は、「ストーリー上、居ても居なくてもどっちでもいい存在」です。

 一方「サンデー」の代表である「名探偵コナン」は、ヒロインの「毛利 蘭」が「ストーリーの鍵を握る存在」になっています。

 「主人公」の「工藤新一(江戸川コナン)」が、そもそも「なぜ推理(探偵行為)をしなければならないか」というと、「黒の組織というアウトローに命を狙われているから」ですが、「その(黒の組織による新一の)殺害」が「毒薬(彼らが開発したもの)」によって行われはしたものの、結果として「未遂」になったため、新一はなんとか生き延びることができました。

 しかし「薬の副作用として身長が縮み、子供のような外見になってしまった」ため、新一は「コナン」という「別人を装って行動すること」にしたのです。

 ここには2つの問題があります。

 1つは「コナンが子供の外見をしている」ため、新一は「知り合いに扶養してもらわなければならない」ということ。

 2つ目は、結果として「新一が蘭の家(毛利探偵事務所)に居候をしている」ことで、「新一の死体が見つからないことを怪しんだ黒の組織が嗅ぎまわり、幼馴染である蘭に危害を加える可能性がある」ということです。

 これゆえ新一は「探偵として、1人の男として」、綱渡りのような日々を送るハメになるのですが、ここで「ヒロインの蘭」がきわめて重要な役割を果たしている*2ことが分かるでしょう。

 以上をまとめると、次のようになります。

雑誌名 女性の捉えかた 野球マンガ 探偵マンガ
マガジン 軽視 巨人の星 金田一少年の事件簿
サンデー 重視 タッチ 名探偵コナン

南ちゃん

 このように「『少年サンデー』というメディア」は「少女を重視する」、きわめてフェミニズム的なところがありまして、この観点から「少年マンガ誌のグラビアに観るジェンダーフェミニズム)」といった考察もおもしろいのですが、これは別のエントリに譲りましょう。*3

 さて、グラビアのモデルといえば「実在の少女」ですが、「マンガ雑誌」である「サンデー」には、当然ながら「非実在少女=二次元のヒロイン」がたくさん出てきます。

 先ほど触れた「タッチ」のヒロイン、浅倉南もその1人です。

 彼女は「南ちゃん」と呼ばれ、作品の外でも注目されたのですが、そのムーブメントはとても大きなものでした。

 彼女が新体操部に所属していることから、フジテレビの夕方のニュース番組「FNNスーパータイム」(現在の「FNNスーパーニュース」)では、『南ちゃんを探せ!』というコーナーを作って、全国の新体操部員の(――あるいは何らかの部活動に励む)美少女を紹介したのです。

 ただ同時にネガティブな反応もあって、当時は「浅倉南=女の敵」と言われていました。

 これは、先ほど挙げた、「80年代」という「フェミニズム男女雇用機会均等法)の時代」にあって、彼女が「主人公に甲子園に連れて行ってもらう」という「受身の立場」にいたことが原因とされましたが、筆者から言わせれば、それは舌足らずな説明でしかありません。

南ちゃんはアイドル

 モーニング娘。はなぜ売れたか――ブリッコの系譜とアイドルの歴史
 http://d.hatena.ne.jp/salbun/20100618/1276822866

 以前、こちらのエントリで筆者は、「デートマニュアルのタブーであるブリッコはメタ化して、90年代に二次元ヒロインとなった」と書きましたが、その現象は80年代の時点ですでに起きていたのです。

 浅倉南がその証拠で、このキャラクターは「二次元ブリッコ(メタアイドル)の始祖の1つ」と言えます。

 これは先ほど挙げた「著者のあだち充が少女マンガ家だったこと」と関わっていて、そもそもブリッコ(アイドル)のベースになっているデートマニュアルが「ジェンダーの教科書」であったことから、「男の子」にとってそれは「女の子の気持ちを推し量る道具」だったわけです。

 ならば「女の子の気持ちを描くプロ」である「あだち充」によって、「この子の気持ちが分かれば、君たち(読者)はデートマニュアル(フェミニズム)的に合格だよ」という試練が与えられたとて、なんら不思議はありません。

 それが「タッチ」ないし浅倉南の登場してきた背景なわけですが、当時のヒロインには、彼女とよく似た役割を果たしていたキャラクターがもう1人いました。

デートマニュアル理解の奥深さと、その戯画化

 「タッチ」の連載開始から遡ること3年、同じ「サンデー」誌上に、あるマンガの第1話が掲載されました。

 高橋留美子の長編「うる星やつら」です。

 これは連載開始の3年後、つまり後発の「タッチ」の連載開始と同時にアニメ化されており、いわば「同期的な大ヒット」をしたことはご存知でしょう。

 ヒロインの「ラム」は宇宙人でして、ちょっとした勘違いから主人公のもとへ「お嫁さん候補」として居座ることになるのですが、彼女にはとても嫉妬深いところがあります。

 主人公がほかの女の子にちょっとでも色目を使うと、体から電撃を放って、主人公を焼いてしまうのです。

 これは「好きだからこその攻撃」ですので、電撃は「好きという気持ちの裏返し」なわけです。

 当時(とくに)の女性の恋愛のしかたというのは、これに象徴されているところがありまして、そもそも女性にとってデートマニュアルとは「男性からモテたい」という願望を叶えるための「攻めのツール」ですが、それと同時に「簡単にヤラせる女だと思われたくない」という願望を叶える「守りのツール」でもあるわけです。

 この「矛盾」がラムの「好きだから攻撃する」という態度に表れています。

 そして、これは「好き(デレ)」なのに「拒絶してしまう(ツン)」という、「ツンデレヒロインのすべて」に共通している資質だということがわかるでしょう。

テレビにある限界

 ここからラムちゃんと、そして南ちゃんのすごさが分かります。

 というのも、いまの世論の形成を担っているのはテレビですが、その「顔」といったら「明石家さんま」であり、彼は「恋のから騒ぎ」(NTV)という長寿番組をやっているほど「恋多き男(キャラ)」ですが、彼の好きな「二次元ヒロイン」が「ラムちゃんと南ちゃん」なのです。

 むろん、これは「90年代にメタ化したブリッコの子孫」である「シャナ」や「ハルヒ」といった「最新型の二次元ヒロイン」から比べれば、かなりのオールドタイプでして、それゆえテレビでは現在、アニメの話題が15年前の「エヴァ」止まりといった、かなり悲惨な状態にあるわけです。

 筆者はなにも「すべての元凶はさんまである」とまでは言いませんが、彼の古いセンスがテレビの限界を示しているということは確かです。

 しかし逆をいえば、この2人のキャラクターが「ツンデレの始祖であり、かつ30年選手であり、一部では、いまだ強い影響力を持ってさえいる」という、とんでもない存在だということが分かります。

ツンデレの二分型

 つまり、このブログでは度々、「デートマニュアルのアンチテーゼを象徴する人格がアイドルだ」と言っていますが、その逆のタイプである「テーゼそのものとしての人格」こそが「ツンデレ女性」なのです。

 ここにある矛盾は、いま見てきたように「好き…でも、素直になれない」という形を取るわけですが、これは「同時発生型と時間差型」の2つに分かれるものです。

 まず前者の代表が「ラムちゃん」で、「好きといいながら電撃を食らわせる」という行動に象徴されます。

 これは「宇宙人」の話ですが、「実在していそうな人格」、あるいは「実在する人間」でいっても話はいっしょで、「本当は愛情を込めて作った」にも関わらず、「まちがえて多めに作っちゃったから食べる?」と言ってお弁当を渡したりします。

 これは「同時発生型」に当たります。

 もっと言えば、「…べ、べつにあんたのために作ったんじゃないんだからね」というベタな台詞は、「文面(今の今まであんたなんて一顧だにしていなかったわよアピール)」が「ツン」であり、「言い方(どもってる、好きだから緊張してる)」が「デレ」を表していて、これは「一極集中的な同時発生型」の例と言えるでしょう。

 もう一方のタイプである「時間差型」は、「矛盾した感情」を「時間の経過」によって表現します。

 これは「みんなと一緒のときは冷たい」のに「二人っきりのときは甘えてくる」といったタイプが相当し、これはデートマニュアルの理解の忠実な解釈です。

 というのも、「デート」マニュアルというのは、「夫婦」や「長年いっしょにいる男女」が、「ともに行動すること」を「デート」と呼ばないことから分かるように、「告白までのプロセス」を紹介したものだからで、「告白するまで」は「簡単にヤラせないわよ」という臨戦態勢でいたのに、「告白のあと」は「抵抗する必要がない(やり方が、マニュアルによって示されていない)」といった「変化」が、そのユーザーによって演じられるものだからです。

まとめ

 冒頭でふれた「混沌」の原因は、ここにあります。

 「デートマニュアルのメタファーである何か」には複雑な解釈が必要で、「テーゼ」を具現化した「ツンデレ女性(花)」には「同時発生型か時間差型か」といった揺らぎがあり、逆の「アンチテーゼ」を具現化した「ブリッコ(あだ花)」には「二次元(アニメ・マンガ)か三次元(アイドル)か」といった揺らぎがある。

 これが整理されないために、あれこれと憶測が飛んで、かかる言論があやふやになってしまったのです。

 そして、最後になりましたが、タイトルの問いに答えておきましょう。

 「ツンデレとはなにか?」

 それは、

 「あだち充高橋留美子少年マンガに持ち込んだ少女の感性が、ターゲットである少年にダブルバインド(ある部分では理解され、また別の部分では理解されなかった)として受け取られたもの。ないし、同様の現象がデートマニュアルの理解において起こったもの。これらの『人格』としての表象(キャラクターナイズ)である」

*1:前島賢著「セカイ系とは何か」

*2:この点から、1つ分かることがあります。この作品が「探偵マンガ」というジャンルを、文学(芸術)のレベルにまで引き上げているということです。「探偵もの」にとって「なぜ推理するのか」というテーマは、それだけ重要なことなのです。

*3:逆にいえば、「マガジン」は女性蔑視的なところがありまして、現在、女子アナのNO.1である高島彩がマガジン派だということは、注目に値する事実です。これも別にエントリを立てて考察します。