妹萌えの正体――「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」から考える
現在まで全6巻が発売され、累計販売部数は120万を突破、2010年の10月からはアニメ版の放送が決定したライトノベルの人気タイトル「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」。
この作品の読みどころは、1巻に尽きます。
まずは、あらすじの説明から入りましょう。
高校生の高坂京介は、3つ年下の妹・桐乃から汚物のように扱われる毎日を送っていた。ある日、妹の趣味が(「女」で「妹」のくせに)「妹萌え」であることを知り、京介はおどろく。彼女はファッション誌の専属モデルをこなすほどの「リア充」であり、「ヲタ趣味」とは正反対の暮らしをしていたのだが、そのギャップに悩んでもいたのだ。妹とまともなコミュニケーションを図りたい京介は、理解者になろうと努力し、結果として、桐乃は変わっていく。これまで二の足を踏んでいたオフ会へと参加して、「ヲタもだち」をつくることに成功したのだ。京介の力添えがなければ、ありえない結果だったが、桐乃はつれないままで、それでも妹とまともに向き合えたことに京介は満足していた。ある日、オタクライフの充実に油断した霧乃が、父親に「ヲタ趣味」を知られてしまう。カタブツの父親は激怒し、モデル代で買い集めた大量の「ヲタグッズ」を捨てろと言い出すが、打ちひしがれる桐乃をかばって、京介は生まれて初めて父親に歯向うのだった…。
結果として、京介は、父親を説得することに成功し、桐乃も少しだけ京介に優しくなります。
さらに桐乃のヲタ趣味は「半ば家族に公認された格好」になるのですが、この作品のキモとなるのは、「ヲタ趣味が主人公(男性)のものではなく、妹(女性)のものだ」という点です。
近ごろオタクコンテンツでは、「ヒロインがヲタ」*1という設定が流行っていて、「らき☆すた」などがそうですが、ここで問題にしたいのはその点ではありません。
いえ、関係はしているのですが、より本質的な点があって、それは「桐乃のヲタ趣味を兄が父に認めさせる」というストーリーです。
どういうことでしょう。
「自然主義的リアリズム」と「マンガ・アニメ的リアリズム」
東浩紀や大塚英志の本を読んだことのあるひとならご存知かと思いますが、小説やマンガの背景には「情報環境」や「データベース」などと言われる「リアリティの水準・性質」の問題があって、これは2つの異なったものの対立です。
次の文章を読んでください。
王城の扉を開けると、暗闇が広がっていた。
そこへ光が吸い込まれていき、俺は覚悟を決めて足を踏み入れる。
「待っていたぞ、王子よ」
魔王の声だった。
祖国と、そして何よりも大切な妹の命を奪っていった憎き影。
俺は帯刀を抜き去ると、柄を握る手に力を込めた。
「殺してやる。殺してやるぞ!」
ほかには何も見えなかった。
あたりは暗闇だけだったのだ。
しかし突進する俺の目には、異様な光景が映った。
天窓から差し込む月の光に照らされそこに立っていたのは、長い髪の少女だったのだ。
「俺の仇がこんなに可愛いわけがない」さる文庫。
いま「どれくらいの長さ」を想像しましたか?
もちろん「長い髪」のことです。
「腰ぐらいまでの長さ」を想像したあなたは、「少女魔王」を「自然主義的リアリズム」で見ていたことになります。
「自然主義」とは「現実的なもの」ですから、「現実の女性の髪はたいてい長くて腰まで」という情報をベースに理解するということであり、いままさにそのような反応が頭の中で起こったため、あなたは「作中の女性も同じだろう」と思ったのです。
これに対立する「情報環境」、すなわち「リアリズム」というのが「マンガ・アニメ的リアリズム」であり、「初音ミク」(ここをクリック)のように、非現実的で、マンガやアニメ的な「くるぶしまでの長さ」を想像するひとが持っているものです。
こうした「潜在的な想像力のちがい(ときには意識的でもある)」が、「(実体がある)三次元の女性に恋をする」か「二次元の女性に恋をする」かの「分かれ道」を生むのです。
「家という駅(対象)」を通る「2つの路線(解釈の文脈)」
「俺の妹〜」の主人公・京介は、まったくオタク趣味を持っていません。
一方の妹・桐乃はヲタ趣味丸出しですから、「京介=自然主義的リアリズムのひと(腰までを想像する)」「桐乃=マンガ・アニメ的リアリズムのひと(くるぶしまでを想像する)」というわけですが、桐乃の趣味に猛反対することから、「父親」は「京介以上の自然主義的リアリスト」だといえます。(母親は、古きよき日本家庭の典型である、家訓に関しては父親の意見を尊重するタイプの女性です)
以上のような水準で、物語のあらすじを構造的に説明すると、こうなります。
自然主義的リアリズムに支配された家庭において、唯一マンガ・アニメ的リアリズムを持ってしまったヒロインが苦悩している。2つのリアリズムに対して等しく理解を持った主人公は調停役を買って出るが、自然主義の権化、父親の登場によって一度は阻まれる。しかし2度目の挑戦によって、ヒロインは救出される。
はじめ「家庭のリアリティ」は「10(自然主義):0(マンガ・アニメ)」だったわけですが、主人公の奮闘と桐乃自身の訴えにより「5:5」ぐらいのところにまでなる。
この力学こそが本書の読みどころなのですが、この「文脈のちがい」をもっと強烈にイメージするには、ある種の比喩が必要かもしれません。
例えば、こんな感じ。
「家」という「駅」があって、そこに2つの路線が乗り入れている。「国鉄」と「私鉄」だ。「駅長」である「親」は「安全で信頼が置ける」ということで「国鉄」に乗ることを薦めるが、「いち乗客」であることを主張する「妹」は、オシャレでスマート(ターミナルビルや沿線の宅地・商用地開発が華やか)な「私鉄」を好む。こうして「どちらに乗るか」の家族会議が始まった。
「国鉄」とは「公的な機関・行政」であり、これは「自然主義的リアリズム」に相当します。
一方の「私鉄」は「私的な言動」に相当し、市民権を得ていない「マンガ」や「アニメ」の体現である「マンガ・アニメ的リアリズム」に相当します。
理想の国民が採用すべきなのは「自然主義的リアリズム」だという世論
ここで改めて注目したいのが、桐乃の趣味です。
作中に何度も登場するのですが、桐乃は「妹萌え」のパソコンゲームをやっている(かつ、モデル代で小遣いが沢山ある)ため、パソコンを何台も持っていおり、ウェブ上のスラングも扱えるほどの「ネット派」なのです。
一方の主人公は、桐乃から「やりなさいよ」と押し付けられた「妹ゲー」をプレイできませんで、これはパソコンをもっていないためです。
図式にしましょう。
ネット派 | マンガ・アニメ的リアリスト | 桐乃 |
テレビ派 | 自然主義的リアリスト | 主人公・父・母 |
先ほど「自然主義的リアリズム=国鉄」としたのは、「長い髪」というとき、それが「腰までの髪」という「現実の現象をベースにした理解」だからであり、それがまた「公的な理解」であるからです。
例えば、「ライトノベル」に「長い髪」というフレーズが出てきたら、それは私的にどうとでも解釈すればよいのですが、「政府が発行した書物」におなじフレーズが出てきたとしたら、そのときは話がべつなのです。
「それは『絶対に』自然主義的リアリズムで理解しなければいけない」
これが「公式見解(世論)」であり、この「誰もが認める」という点が厄介なのです。
世論の形成について
父が「カタブツ」であり「自然主義的リアリズムの徒」であることは、彼の職業が「警察官(公務員・法の番人)」である点にほのめかされています。
いわば彼は「公の意見」に従っているわけで、言い換えるなら「世論」です。
この「世論」が「世の中の女性の髪は長くても腰まで」と言っているわけですが、その「意見」はいかにして「観測」されたのでしょうか。
日本人女性はいま約「7000万人」いると言われていますが、その全員が「長髪」だったとき、過半数の約「3501万人」以上が「腰よりは短い」状態にいなければ、そのような世論は形成できないわけです。
仮に「一度、調査した」というとき、「その調査」が正しく行われたという証拠はあるのでしょうか。
主人公を突き動かしたもの
桐乃がヲタグッズを隠していたのは、「かつて和室だった名残りである自室(洋間)の押入れのようなところ」ですが、そういった「私的で隠れ家的なところ」に「くるぶしまで髪がある女性」が大量に隠れていたかもしれません。
しかし「私的領域」にまで踏み込んで検査をする権限など、公的機関でさえ大抵の場合はありませんから、その証明はできないものなのです。
簡単にいえば、ワイドショーで「内閣改造――街の声を聞いた!」という「街頭インタビュー」が行われたとき、それはまさに「街頭」であって、ヨネスケじゃないんだから、家の中までは踏み込んでいけないわけです。
つまり「世論」というのは「テレビカメラが入れる場所」なのであり、これを縮図する、つまり「家の中」を「社会」だとみなせば、「桐乃の押入れ」は「カメラ(父親)が入れない・入るべきない場所」に相当するわけです。
実際、桐乃は「テレビ派」ではなく「ネット派」ですし、「テレビ=世論=公権力」の権化たる「父親」は不当にも桐野の趣味を奪い去ろうとしたわけですから、これは「テレビクルーの不法侵入」に相当します。
桐乃は、それによって辛い思いをしました。
これは「公権力の乱用(「年ごろの娘の部屋に勝手に入る、ケータイを盗み見る」的な行動)」であり、不当な手段で「高坂家の世論」が形成されたことを意味します。
主人公を突き動かしたのは、そのような権力主体を放置したくないという思いだったのではないでしょうか。
桐乃=読者のオタク
そもそも主人公が「桐乃とまともにコミュニケーションしたかった」というのは、「桐乃の蛮行(ふつうは兄に対して取るはずのない態度)」が原因であり、それは「彼女の抑圧」から生まれているわけです。
「桐乃がヲタ趣味を誰にも話せなかった」
「桐乃がヲタ趣味を剥奪されそうになった」
これらはそのまま「世のオタクたち」の受ける被虐の直喩、あるいは暗喩として読まれており、だからこそ作品は大ヒットしているわけでしょう。
ここに「桐乃の父=世論」という図式(「桐乃の父が警察官である意味は重い」という読解の正当性)が強化されるわけです。
「桐乃の父」は「桐乃の趣味」をよく理解しないまま、「偏見に満ちた態度」で接し、「世の中」は「オタク」をよく理解しないまま、「偏見に満ちた態度」で接する。
まったく同じ構造になっているわけです。
つまり「桐乃=読者のオタク」なのです。
いま、乗り換え(変革)のとき
この被虐は「家庭内=社会」におけるリアリティの2環境、つまり「『自然主義的なもの(テレビ文脈)とマンガ・アニメ的なもの(ネット文脈)』のバランスがおかしくなっている」ために起こるわけです。
桐乃もオタクも悪いことをしていないのに被害を受ける。
「こうした苦境から被害者を救おう」という思いとは、物語論的にいうと「救済するものの物語(ビルドゥングス・ロマンス)」になるのですが、この別名である「教養小説」というときの「教養」とは、「何かから情報を手に入れる」ということです。
冒頭で「2つのリアリズムのちがい」は「データベースのちがい」だと書きましたが、「いまあるべき教養」とは「インターネット=マンガ・アニメ的リアリズムというデータベースから取り出した情報である」ということを、この作品は示しているのです。
つまり「テレビ中心の社会(国鉄・既知の世論)」から「ネット中心の社会(私鉄・未知の世論)」に変革すべき(乗り換える・新しい世論を形成すべき)だと。
まとめ
「妹萌え」の作品とは、当然ながら、どれも「主人公と妹」が、(家や戸籍のような具体的な形で存在が確認できるかどうかはともかく)「家族として1つのルールに縛られて生きている」というストーリーを持っています。
その「ルール」が不当なものであった場合、そこには「ルールのバックボーンになっているリアリズム・情報環境の選択において誤りがある」わけで、「それを訂正すること」という名の「救済」が描かれることになります。
この「救済」によるカタルシスや「予感」のことを、われわれは「妹萌え」と呼んでいるのです。
例えば「妹とセックスする」ゲームについても同じことが言え、「実は血がつながっていなかった」と明らかになる場合、それは「家計図を書き換える」というストーリーに相当し、この「嫡子・養子」のような文脈が「国鉄・私鉄」のちがい・「リアリティの2環境」のちがいに相当します。
これは「正しい妹萌え」の話ですが、「まちがった妹萌え」は、「血のつながった妹とセックスする」タイプのゲームでしょう。
そこには何の”あるべき文脈のスイッチング”も起きていませんから。*2