蜷川実花は百合じゃないし、AKBは揺るがない?
AKBの新曲「ヘビーローテーション」ですが、PVの監督が蜷川実花ということで、かなり毒々しい感じになっています。
「ヘビーローテーション(PV)」 AKB48
http://www.youtube.com/watch?v=fX5h-swAArc
巷では、メンバーの下着姿が話題になっているのですが、これって「女子ウケ」を狙ってるわけですよね。
下着はオーダーメイドの一点モノで、国内外の有名ブランドにオファーしたらしく、80'のマーケッター・秋元康らしい作戦ですが、筆者が注目したいのはべつの点です。
彼の戦略によって生まれた、蜷川実花のディレクションについてなのです。
蜷川っぽさと百合っぽさについて
以前から、彼女の仕事には同じ感想を抱いていたのですが、今回も「百合と見せかけてどこかちがう」というか、吉屋信子〜コバルト文庫的なもの、「マリみて」的なものとはちがった仕上がりになっています。
正直、女の子同士のキスとか、下着姿とか、あんまり男子はうれしくないわけですよ。
PVのオープニング(アバンタイトル=イントロの前の音のない部分)は優子の着替え姿(PEACH JOHN的な下着姿)になっているのですが、男子はそれよりも、明らかに「見せパン」と分かっている「スカート、ひらり」のサビに興奮するものなのです。
「スカート、ひらり(PV)」 AKB48
http://www.youtube.com/watch?v=HQ3W40mo5wg
(1:16秒ごろ)
また百合の話をするならば、「マリア様がみてる」の実写版が彼女に託されなかった理由を考えるべきだということです。
実際、オファーがあったのは寺内康太郎という人物で、彼はホラーの作家です。
ホラーはゴシックの流れですから、ゴスロリ文化と近接している百合にとって、うってつけの人物と言えるでしょう。(そもそも実写化するなよ、というツッコミはさておいて)
蜷川には、この「ゴシックっぽさ」が足りないのだと思います。
おそらく彼女が監督になったら、「マリみて」は骨抜きにされてしまったでしょうし、「それって逆に見てみたいよね」という興味にすら適わない(=ただの違和感しかない=PEACH JOHNのカタログやTVCMに男が興奮しないのと同じ*1)と思われます。
ともかく「蜷川的なもの」と「百合的なもの」というのは、全然ちがうマインドによって成立しているのですね。
アイドルの女子ウケについて
「蜷川的なもの」というのは、おそらくですが、「異性愛にも開けず、かといって同性愛にも閉じれない」とか、「三次元も直視できないし、二次元に目が肥えているでもない」といった「さまざまな意味で中途半端なひとびと」を狙ったものなのです。
べつにそういう趣味があってもいいし、AKBがそこを狙い撃ちしたっていいのですが、アイドル文化というのがそちらへ流れていってしまうこと、果てはそこで固まってしまうことの危機性というのを、筆者は感じます。
例えば、それは音楽に絡めて語ることが出来るものです。
詳しくは、以前から予告している「大声ダイヤモンド」についての論考で語りますが、簡単に言うと、それは「編曲」の問題です。
「ハロヲタ」など「女性アイドルを応援する男性」が「編曲家」について熱く論じるのに対し、「ジャニヲタ」など「男性アイドルを応援する女性」は、同じものに対してまったく興味を示しません*2が、これは男女で音楽の消費形態が異なる(女性の編曲家なんてほぼ絶無だ)からです。
ここから分かるのは、「女子にウケる」=「当該のアイドルの楽曲がつまらなくなる(悪平等が起きる可能性が高い)」ということなのです。
ただでさえAKBは、松田聖子やハロプロと比べて「編曲」がつまらないのであり、それでも筆者が彼女らの肩を持てているのは、「大声ダイヤモンド」という超S級の離れ業(ほぼ反則技に近い)や「10年桜」のような変質的なタイトルがあるからなのです。
これ以上、曲がつまらなくなったら、筆者はAKBを支持し続けられる自信がありません。
だから、あくまで「蜷川的なもの」は、「ハロプロにおけるダンス☆マン的なもの」として、つまり「一過性のもの」として処理されることを願っているのです。
メンバーのキャラの問題
この問題がややこしいのは、さらに総選挙の問題が絡むからです。
この楽曲「ヘビーローテーション」は、第二回の総選挙で1位に輝いた大島優子をセンターに置いていますが、これが女子ウケの象徴になっているのではないかと。
つまり「前田敦子=男子ウケ」「大島優子=女子ウケ」という図式があるのではないかと思うのです。
このあたりを、全メンバーについて分別してみるのもいいかもしれません。