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AKB48の全シングルの歌詞を、1人の少女のストーリーに喩えてみた(6/10)

 このエントリは、次のエントリの続きです。
 AKB48のシングルの歌詞を、1人の少女のストーリーに喩えてみた(5/10)

7th「ロマンス、イラネ

 主語が「僕」になった「僕の太陽」、そして「夕陽を見ているか?」に続く、7枚目のシングル「ロマンス、イラネ」ですが、ここでは再び主語が「私」になっています。

 Ah 親友さえも裏切れるくらい
 Sad もう何も見えなくなってる
 Cry 好きになると人が変わるのは
 普通ですか?
 それとも私だけですか?

 なぜ「僕」が消えたのでしょうか。

 それは「友人からの略奪愛」がテーマになっているからです。

 先ほど「スカート、ひらり」の時点で「彼」には恋人がいた可能性、そして少女がその誰かから「彼」を奪い取ろうとした可能性について考察しましたが、ここでは明らかに「それ」が示唆されています。

少女が生きた物語(ここまで)

 中学を卒業し(「桜の花びらたち」)、高校へ入ると好きなひとが出来た(「スカート、ひらり」)が、それは片思いであり、告白もできなかった。

 思いは次第に強くなるが、このまま行動に移すと思った矢先(「会いたかった」)、突然の転校。

 理不尽な失恋を経験し、彼と疎遠になってしまう。

 都会で傷を癒そうと、彼女は学校帰りに危険な遊びを試みるが踏ん切れず(「制服が邪魔をする」)、モラル崩壊の一歩手前まで行ってしまう(「軽蔑していた愛情」)。

 恋に留まらず、人生の大きな痛手を追った彼女は、失意の中、田舎へ戻ると、そこにはかつての「彼」が。

 再び恋心を燃やす(「BINGO!」)が、その隣には別の女性がいた。

 それでもいいと、遠くから触れられない彼を思い続けることにし(「僕の太陽」)、友情に生きようとするが、地元を離れているあいだ、本当に心が離れてしまっていたのは「彼」ではなく(「桜の花びらたち」で別れた)「友達」だった。

 心を割って話せる相手はなく、空想上の「友達」に思いの丈を告白する(「夕陽は見えているか?」)。

少女が「僕」と言うようになったわけ

 このように考えていくと、「物語」にはちゃんと1本の筋道が通っていることに気づきます。

 しかし通っていないのは「主語」のほうの筋です。

 ここまでの流れを見ていくと、

タイトル 主語
桜の花びらたち 私+私たち
スカート、ひらり 私+私たち
会いたかった なし
制服が邪魔をする
軽蔑していた愛情 私たち
BINGO!
僕の太陽
夕陽を見ているか 僕ら
ロマンス、イラネ

 となり、「僕」が採用されたのは「僕の太陽」「夕陽を見ているか?」の2つだけ。

 それは田舎に帰ってきてからの話であり、帰ってきたばかりの「BINGO!」は回想に当たります。

 これは「彼に彼女がいる」と気づく前の話ですから、主人公の少女は、「彼が自分の恋人になる可能性」を楽観視していられたのでした。

 しかし彼に恋人がいると発覚してしまうことで、触れられない(太陽のごとき)彼との関係は「憧れ」という次元を通り越し、「妄想」や「ファンタジー」の域にまで達してしまいます。

 これはかなり「イタい」話ではありますが、それだけの経験を都会でしてきたのですから、当然かもしれません。

 以前、「軽蔑していた愛情」のところで書いた、

 「恋に恋していた気持ち」は「身分保証の急進的な希求」、すなわち「『社会的な居場所』の盲目的で、かつ危険な方法による確保」へと姿を変えていきます。

 という点や、その傷が癒えていないという点が、その「経験」に当たります。

 実際のところ、田舎に帰ってくることで、傷はどうにか癒えそうだったのですが、それは「彼と恋人になりたい」という願望の成せたわざであり、それすら打ち砕かれてしまった現在、少女の自我は崩壊したままなのです。

 ある発言における「主語」というのは、そのひとの心の状態を映しますから、「恋」にも「人生」にも敗れ、田舎の「友達」、そして「家族やまわりの人たち」にすら預けることの出来なかった彼女の「自我」は、唯一の希望(太陽のごとき、絶対一の存在)である「彼」に向けられます。

 ここへ到って「僕」という主語のもとに「少女」と「彼」が結びついたのです。
 
 
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 AKB48のシングルの歌詞を、1人の少女のストーリーに喩えてみた(7/10)