アニメの飛行シーンについて――「夢喰いメリー」の山内重保(演出)という反面教師
2011年もあけまして、第1クールのアニメがぞくぞくと放送をスタートさせていますが、すこし気になった点がありました。
それはTBSの深夜に放送している「夢喰いメリー」という作品で、OP(アバンタイトル*1)の演出が酷かったのです。
演出家:山内重保について
内容にいく前に、仕掛け人について触れておきましょう。
彼の名は「山内重保」といって、wikiによると、「ドラゴンボールZ」など有名な作品の演出家で、功績としては「細田守など(に)影響を与えた」そうです。
山内重保 −wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E9%87%8D%E4%BF%9D
こう書くと、彼があたかも優秀なスタッフであり、仕事を一手に引き受けてきたかのように思えますが、そうではありません。
「ドラゴンボールZ」は連名ですし、Wikiを見るかぎり、単独で成功させた作品のうち有名になったものはありません。*2
また同ページには「特徴」というのがあって、彼の演出法について触れているのですが、これはほかの同業者にはあまり見られない傾向です。
試しにWikiの一番下までいって、カテゴリの欄にある「日本のアニメーション監督」のページから2〜3閲覧してみてください。
これが何を表しているかといえば、「彼がアニメファンから有名な演出家と目されている」ということです。(→特に「細田がうんぬん」のところ)
物理学の話
それでは、彼が一体どんな仕事をしているのか見てみましょう。
開始57秒のあたりを見てください。
ヒロインが「路地裏から光のさす方へ出ていく」シーンです。
「陰から陽へ」という背景の変化、また「物語の予兆」さえ表しているそれは、「夢喰いメリー」というタイトルの持つファンタスティックな響きに相応しく、ヒロインが「風に巻き上げられるようにして飛ぶ」ようすとして描かれます。
ここで大事なのは「浮遊」の「描かれかた」です。
「浮遊」には必ず「上昇」と「落下」が存在しますが、速度の問題から「軌道の頂点において物体は静止」します。
この「静止」を山内は「静止画」として描いており、当該のシーンがその証拠です。
心理学の話
これは「論理的に正しい」ように思えますが、実はちがっています。
なぜなら「物理法則をなぞっただけ」に過ぎないからであり、「視聴者の心理」が考慮されていないのです。
どういうことでしょう。
先ほどの「物体の速度」を「野球ボール」で喩えてみましょう。
9回の裏、2アウト満塁で1打サヨナラのチャンス。バッターボックスには4番。対するは抑えの切り札。3塁を一旦けん制してからの第1球はストライク。続けて第2球は、間合いを嫌ったバッターが外す。仕切り直しての第2球。外角低めに突き刺さった球はボール。両者見合っての第3球。内角高めに放たれた球は、快音とともに弾き返された。スタジアムにいた誰もが空を見上げる――。
ここで筆者がアニメ監督だったら、「ボールの滞空時間をたっぷりと5分」は取って、打たれたピッチャーの悔しそうな顔、バッターのしたり顔、ベンチや客席の反応を丹念に描いていきますね。
しかし、その間、実際に流れたのは、「ほんの5秒程度」です。
つまり「ボールという物体が軌道の頂点に達したとき、心理的な時間は引き延ばされる」のです。
宮崎駿のすごさ
「夢喰いメリー」の当該のシーンも、「ヒロインが軌道の頂点」に来たとき「心理的な時間」は引き伸ばされていますが、それでは不十分です。
正確には「心理的な効果を持った誇張表現」がなされなければいけないのです。
実際、シーンを見返してもらえば分かるのですが、山内はそれに類することをやっています。
しかし、それは「静止画を長映しし、カメラワークで誤魔化しただけ」という、「アニメ(=絵を動かしてナンボの世界)」にあるまじき代物です。
もし同じシーンを宮崎駿が手がけたら、ほかの枚数を削ってでも微細に描いたでしょう。
なぜなら当該の箇所は、第1話の冒頭であり、ヒロインの「ある種の越境」「冒険のスタート」を表している大事なシーンだからです。
映像を用意できないのが残念ですが、「魔女の宅急便」の『キキの旅立ちのシーン』(「ルージュの伝言」が流れてるあの飛行シーン)と、この「夢喰いメリー」のシーンとを見比べれば一目瞭然です。
なぜ宮崎が「飛行シーンの宮崎」「風のエレメントを持つ演出家」と言われ、「世界に名だたる演出家となったか」が分かる、それは見事な「心理的効果の差異」のはずです。
アニメであることの必然を分かっていない演出
そして同時に、「いかに山内の演出がお粗末か」も理解するはずです。
むろん、これには反論が予想され、Wikiには次のようにあります。
非常に独特な演出をする。登場人物が断片的な会話しかせず時折会話すら成立していない場合もある。これを画面上の変化や編集、カメラワーク、音楽などで補完し表現するのが彼の特徴である。
先ほどの「特徴」についての記述ですが、ここから分かるのは、「彼なりの美学があり、それが作品において功を奏することがある」ということです。
しかし、「それ」は「アニメでなくてもできること」に過ぎず、宮崎の「それ」は「アニメでなければできないこと」なのです。
やはり確認されるのは「宮崎の偉大さ」であり、同時に、そんな本質的な欠点を、くだんのわずか2〜3秒のシーンから晒してしまっている「山内の矮小さ」です。*3
彼は30年からのキャリアがあるそうですが、「アニメについて」何も学んでこなかったようです。(→むろん彼のシンパも)