萌え豚っていうな!

萌えヲタのことを萌え豚となんの根拠もなく言うのを止めさせることを目的としたブログ。自分で言うことも含む。

「けいおん!」に感じる違和感――アニヲタの耳が狂ってきてる?

 大人気の「けいおん!」ですけども。

 なんというか、キャラの「声」と「顔」が合ってないように思うんですよね。

 ふつうというか、地味というか。

 ドラム担当の律(りつ)(CV:佐藤聡美)なんかが特にそうで、おなじ「空気系」「4コマ漫画原作」の「ショートカットorにぎやかし役」といえば「あずまんが大王」の智(とも)(CV:樋口智恵子)や、「苺ましまろ」の美羽(みう)(CV:折笠富美子)ですが、これらと比べて「声質」も(演技も)はじけっぷりが足りない感じがするのです。

顔と声の親和性の問題

 声には、次の二種類があります。

 ・三次元の顔から出てくるのに相応しいもの(非アニメ声)
 ・二次元の顔から出てくるのに相応しいもの(アニメ声)

 「アニメ声」といったって、何も「鼻にかかって甲高い」(萌え声?妹声?)というだけではありません。

 いわゆる「あのキャラの声優って、こんな顔してたの?」というタイプの違和感(必ずしも、それが「がっかり感」だとは限りませんが)を与えるひとは、「声が自分の顔よりアニメキャラのほうに親和している」という意味で、全員「アニメ声」といえるでしょう。

 非常識なキャラが多いためギャグ系の作品というのは特にそうでして、当然、そのタイプの作品である「けいおん!」には後者がキャスティングされるべきなのですが、実際、キャストの多くが前者であるように思うのです。(主演の豊崎愛生だけは例外だと思います)

 これは筆者の主観に過ぎないのかもしれませんが、同じものは、ここ最近のヒット作のいくつかにも感じます。

 例えば「屍姫」シリーズとか、あるいは細田守の作品とかがそうです。

 後者の場合、一般向けを意識しているという点で宮崎駿とおなじですが、彼の場合は、なぜかそこまで気にならないんですよ。

 作品自体にオタク臭(SF+ボーイミーツガール)がしないため(ナウシカ以外)とも思いますが、問題なのは前者の「屍姫」で、これを作ってる会社こそがネックなわけです。

庵野秀明の持っていた屈託

 同作はGAINAXの作品ですが、これは言わずと知れた「新世紀エヴァンゲリオン」(TX)の製作会社です。

 監督の庵野秀明は「エヴァ」に込めたメッセージとして、「アニメを捨てて町へ出よ!」とオタクに対して言ったわけですが、却って彼らが家に閉じ込もるきっかけを与えてしまうという皮肉な結果になりました。

 「インターネットの普及」「エヴァの同人創作のし易さ」「作中の謎の語り易さ」(後ろ2つは、どちらもネットが活動の中心でした)といった原因が見当たるわけですが、ともかく庵野はこれを苦々しく思っていたわけです。

 「アニメなんて…」と言いながら、「アニメだから」という人々を増やしてしまうという、自らの立場・行為への屈託。

 それって、いま思えばアスカのキャスティングに出ていたと思うんですね。

 ヒロインの片割れ、惣流・アスカ・ラングレーの声をやった宮村優子は、本作に起用された時点で、ほぼぺーぺーのド新人だったわけですが、彼女の声はあまりにも典型的なアニメ声でした。

 これは筆者の主観などではなく、2010年現在「名探偵コナン」(NTV)においてカップル役で共演している堀川りょうベジータの声のひと)が、そのあまりにアニメ的でギャグっぽい声のため、ほとんどシリアスな作品にキャスティングされないという事情からも見て取れます。(声質が似ているからカップル役ができる)

 もう一人のヒロイン、綾波レイ役の林原めぐみも「コナン」に出ていますが、彼女の場合、綾波にせよ「コナン」で演じている灰原にせよ、かなりアニメ的な声を抑制しているので、そのちがいは歴然としています。

 「オタクアニメ否定の作品」に「典型的アニメ声の声優」を使ってしまう。

 これが屈託と呼ばずに何でしょうか。

リアリティのねじれ現象

 庵野エヴァを終えたあと、GAINAXは(エヴァ以前のように)ヲタビジネスまっしぐらに突き進み、「エヴァ」の関連商品など、もう腐臭が鼻に付いていたほどだったわけですが、その会社が庵野の退社後に作った「屍姫」が、どうにもヲタ臭くないキャスティングをするというところが不思議です。

 むしろヲタへのコンプライアンスを突きつめたのだから、声優がどんどん「一般人の聞くに堪えないもの(3次元の顔に絶対合わないもの)」になっていってもおかしくない。

 なのにちがうという、この声質の問題というか、リアリティのねじれ――東浩紀大塚英志ふうにいえば、「自然主義的リアリズム」と「マンガ・アニメ的リアリズム」のねじれの問題は、ほかにも見て取れるわけです。

 それがファッションの話で、「けいおん!」やおなじ京都アニメーションの「涼宮ハルヒの憂鬱」、それから新房昭之の「化物語」においては、どう考えてもキャラが二次元なのに、「おい、キャラの服を描くから、コンビニ行ってファッション誌を幾つか買ってこい」とかなんとか、あたかも作画監督が使いっ走りに命じたかのごとき、どうみても三次元のファッションをしているわけですよ。

 要は、エヴァのプラグスーツとかセーラームーンの戦闘服とか、そういう非常識な格好こそアニメだろ?っていう違和感があるわけです。

 まぁ、これは「オタク・イズ・デッド」的に古臭い感性なのかもしれません*1が、ともかく、「化物語」なんてオタクの中でもさらに重度の(かつ歪んだ)オタクしか受け付けないような作品ですが、そこにむしろ三次元性が宿ってしまうという屈託。

 これは「けいおん!」に描かれる楽器類の妙なリアリティ・演奏シーンへのフェティッシュとも共鳴します。*2

アニメの見すぎ?

 1つ言えるとすれば、アニヲタのアニメの見すぎという側面があるのだと思います。

 厳密にいえば、それは量の問題ではなく、「非アニメ的なもの(マンガ・アニメ的リアリズムを持たないもの)」への目配せがないためとでもいいましょうか。

 以前、こちらのエントリ、

 ウェブはKYと外人のもの −ネットユーザーはなぜリア充を毛嫌いするか
 http://d.hatena.ne.jp/salbun/20100605/1275697857

 で書いたとおり、ネットユーザーすなわちオタクというのは、テレビ・リア充・三次元に対して鈍感なところがありまして、その鈍感さゆえにできてしまうことなのかなと。

 三次元に敏感ということは、その差異にも敏感だということであり、「三次元の声に二次元の顔」という違和感がわかるのは、その差異を理解してこそなわけです。*3

 「オタクユーザーのコンプライアンスを突き詰めた作品」を作ること、あるいは「オタク作品のオタクらしさ」を追求することとは、作品の(ある種の)純度を高めていくということであり、必然的な機能としては「異物を排除するウィルスバスター的なもの」が求められるわけです。

 これは「ウィルス(三次元)」を知ってこそ手に入るわけですから、このエントリは次のようにまとめるべきでしょうか。

 「アニメ・マンガ的リアリズム」にばかり気を取られ、「自然主義的リアリズム」から目をそらし続けたオタクは、「ウィルス(自然主義的リアリズム)」という異物を排除する方法(自律神経の機能・免疫機能)を失ってしまった――。

 空気清浄機や抗菌グッズを使って極限まで細菌を減らしていくと、免疫機能を失って、却って不健康になる――というテーゼがありますが、これはアニヲタ的にいえば、「エヴァ」の第13話『使徒、侵入』における「進化の促進、すなわち自滅」というネルフの取った作戦に似ています。

 オタクは自滅の道を辿っているのか、それとも…と、物々しく煽ったところで終わりにします。

 (※このエントリの結論は、筆者の耳が正しかった場合にのみ、正しさが証明されるものです)