宇宙アイドルアニメ 「マクロスF」について
現在、BS11ではSFアニメ「マクロスF」を放送しています。(日曜00:30〜)
これはシリーズものの最新作でして、82年の「超時空要塞マクロス」が始まってから30年、もはや熱心なファンでない筆者には、これが一体シリーズの何作目に当たるのか、wikipediaをみても見当がつかない状態になっています。
よって今まで敬遠していたのですが、ブログでアイドル批評もやっていることだし、いちどチェックしてみようかなと思いました。
「宇宙アイドル」アニメとしての「マクロス」
とはいえ、いまの言い方だと、論理に飛躍があるように感じるかもしれません。
なぜ「アイドル批評をやっている」から「マクロス」なのかと。
それは、あなたがこの人気シリーズのコンセプトを知らないためであり、この「マクロス」シリーズの裏には、「宇宙時代に活躍するアイドル歌手を描く」という製作者の一貫した意図があるのです。
代表的なのが、第1弾で「リン・ミンメイ」が描かれたことで、彼女は現実世界でも世界的な人気を博し、現在の二次元アイドルの代表格にまで登りつめました。
ほかのアイドルたちも、彼女ほど爆発的ではありませんが、作中で歌った楽曲が、現実でCD化される*1など、やはり視聴者からもアイドル視されてきたという経緯があります。
このシステムは、元来がバーチャルな存在であったアイドルを、さらに非現実へと進化させ、そこへひねりを加えてから再び現実へ着地させるという、かなりアクロバティックな機能を持っているわけですが、最新作の「マクロスF」を見る限り、この手法が限界に来てしまったようです。
シリーズの開始から30年が経過したいま、「アイドルの描写の進化」が完全に止まっているのです。
80年代のアイドルは高飛車じゃいけなかった
「マクロスF」の第1話では、Aパートでヒロインの1人である宇宙アイドルが、高飛車なキャラで周囲に迷惑を掛けるシーンが描かれます。
これはアイドルをモチーフに扱ったアニメを見慣れているひとにとって、かなりお馴染みの光景であり、80年代には世間の誰もが信じていた光景でした。
――本番中だけ愛想がよくて、裏では平気で他人を蹴落とす。
そんな姿を(海外も含めて*2、)誰もが「アイドルの素顔」として想像していた時代があったのですが、これは松田聖子へのブリッコ批判に象徴されています。
こうした感性は、上記のようなオタクにとって、今もリアリティがあるものであり、だからこそ2008年に上記のようなシーンが描かれるわけですが、これはもはや、非オタクにおいて共感されえないものなのです。
いまや「高飛車」というフレーズは死語になり、時代が流動性を高めていくなか、新たなコミュニケーションが求められるようになりました。
その結果として、「高飛車になることは正しい」という認識が生まれたのです。
00年代のアイドルは高飛車でいるべき
例えば、モーニング娘。の道重さゆみは、バラエティにおいて「世界一かわいいのは自分」と言ってはばかりませんが、これは笑いを取るための正しい手法であり、バラエティにおいては、笑いを取ることが何よりも優先されます。
共演者は、番組が盛り上がることにより、彼女のふるまいを正しいと感じるのですが、もしここで彼女が、あたかも80年代アイドルのように振る舞い、謙遜ばかりしていたらどうでしょう。
せっかくのネタフリが台無しになり、番組の視聴率は低迷しますから、むしろ好感度が落ちることになります。
「マクロスF」の世界では、こうした「新型アイドルの存在」が取り入れられず、時代性の更新が行われていません。
いまだに彼女らは「謙遜すべき存在」として設定されており、これはスタッフと視聴者の想像力が、80年代から一歩も進んでいないことを意味するのです。
もっとも、こうした事情は日本に特有なものかもしれず、1stシリーズのときから「マクロス」は海外でも人気がありましたから、作者はこのように主張するかもしれません。
「国内なんて相手にしてない。これは海外のファンに向けて作ったのだ」
コンサート会場を宇宙空間に見立てる秀逸なシーン
ただ、それにしたって、本作の出来が悪いのは事実です。
「マクロスF」の第1話には、続けて、先ほどの宇宙アイドルがコンサートを開くシーンがあります。
会場は渋谷にあり(宇宙時代らしく、サンフランシスコと直通の鉄道でファンが駆けつけます)、シーンは会場の内部を描くカットと、地球の外(宇宙空間)を描くカットが交互にすばやく繋がれていきます。
こうした手法を「カットバック」といい、2つのカットに意味上のつながりをもたらすものなのですが、そもそもの話、コンサート会場と宇宙空間という2つは、普通まったく結びつかないものです。
このシーンの意図がどこにあるかと言うと、「コンサートの演出」と「宇宙空間で行われる戦闘」を重ねることでして、ここに作品のオリジナルな設定が関わってきます。
この会場は、現実のそれとはちがい、前後左右のみに広がる2D空間ではなくて、テクノロジーの進歩によってもたらされた上下方向の演出が取り入れられた、3Dの空間になっているのです。
「2Dのコンサート会場」と「3Dの宇宙空間」という「次元のちがう」対比に、SF要素を加えることで、「3D空間同士のカットバック」という「次元の統一」が図られたわけです。
これは「宇宙アイドル」という作品のモチーフに従った、きわめて秀逸なシーンと言えます。
重力から開放された未来ダンサー
これは本来、2D空間で歌う存在だったアイドル(地球アイドル)を、3D空間で歌うアイドル(宇宙アイドル)にアップデートさせたものなのですが、ここには問題があって、それだけだと30年前の「超時空要塞マクロス」から進歩していないことになるのです。
あの当時におなじことをしたって、視聴者はその意図を汲み取れたはずですから、ここに本質的な更新は行われていないと言えるのです。
それどころか、この「マクロスF」は、そうした視聴者の読解を妨げる演出がなされてさえいます。
先ほどのシーンでは、3D空間に進化したコンサート会場の中を、いつだったかのオリンピックの開会式で有名になったロケットマンよろしく、飛行用のブースターを付けたパフォーマーが飛び回るのですが、これはバックダンサーの進化系といえます。
これまで重力に縛られ、前後左右の動きしかできなかった彼らが、空という舞台を得て、パフォーマンスの幅を広げたのです。
ただ、この設定は説明されず、視聴者は実際にコンサートがはじまった映像を見てから、追って理解していくしかありません。
実際、そのシーンがどうなっているか、つまり視聴者が理解できる仕上がりになっているかどうかを見ていくと、これが失敗に終わっているのです。
情報過多な演出
くりかえすように、この「コンサート映像」は「宇宙空間での戦闘」とカットバックされますから、視聴者はここで2つの映像を同時に見て、同時に理解しなければいけません。
さらに、その2つの関連性(=意味上のつながり)まで探らなければならず、戦闘だって、「なぜ行われているのか」「誰と誰が戦っているのか」が説明されないため、視聴者の思考は混乱します。
ただ、この程度の量でしたら、ちょっと考えればわかる情報なのですが、さらに別の文脈が加わって余計にややこしくなります。
そもそも、このシーンは「主人公とヒロイン(アイドル)が出会うシーン」なのであり、加えて「バックダンサーの彼が予定にない行動を取ることで、メインパフォーマーの彼女が事故って死にかける」というサスペンス要素まで入っているのです。
これらすべての要素を、視聴者はほんの3〜4分のあいだに、すべて理解しなければならず、さらに致命的なのは、メインモチーフが邪魔されているという点です。
このシーンは「宇宙アイドルのコンサート」ですから、視聴者がじっくりと歌を聴いて、その歌詞を理解することが求められるのですが、押しよせる情報の波は、この点をこそもっとも困難にしているのです。*3
よって「マクロスF」は過剰な演出によって、自分自身どころかシリーズ全体をも台無しにしてしまうという、酷い作りになっているのです。
意図は分かる。だが…
これは先ほどの、「日本におけるローカルなアイドル的状況」の問題とはちがって、外国人にとっても看過できない問題です。
筆者はアイドルオタクですから、作者たちに何らかの意図があるのなら、それは積極的に買いたいと思います。
例えば、「アイドル像」をあえてアップデートせず、80年代のそれを守り続けることで、よりモチーフを洗練させていきたいというのなら、それはそれでとても素晴らしい試みだと思うのです。
しかし肝心の出来がこの体たらくであっては、応援のしようがありません。
「マクロス」シリーズのスタッフには、「アイドルとは一体なにか」という問いについて、もっと深く悩んで欲しいと思います。
(※もっとも、これらの描写(アイドルの歌詞を郵便的に抹殺する)に意味があるのだとしたら、話は変わってくるわけで、それを確認するために第2話以降もチェックし続けようとは思います)