「24時間テレビ」の視聴者は、「こころの処女膜」を求めている
泣いてましたね。
「24時間テレビ」(NTV)のチャリティーランナー、はるな愛のことです。
スタート前(開始1時間ぐらいのところ)からすでに泣いていて、そのままZARDの「負けないで」が流れ出しそうな勢い*1だったのですが、「とりあえず泣いとけ」みたいな、この空気って一体なんなんでしょう。
筆者なんかはアイドルオタクですから、AKB48を楽しみに見ていたり、モーニング娘。とのコラボがあるというので期待しているわけですが、そういう見方は「チャラチャラしてる」とか、どこか「邪道である」という印象を持たれるような気がします。
実際に言われたことはないのですが、なんとなく、そう感じるのですよ。
世の中には役割分担がある
はるな愛のくだりもそうですが、「24時間テレビ」には全体的に、タレントすべてが「泣きor泣きスタンバイ」みたいな状態にあって、「泣くこと=正義」みたいな方程式が垣間見えるときがあります。
でも、それって実際のところ、おかしいわけですよ。
世の中には、「もう涙なんて枯れ果てた」というひとだっているわけですから。
たとえば、それこそ「24時間テレビ」に出てくるような「難病の子ども」がいたとき、彼ないし彼女が闘病のために「苦しいよ、死にたいよ」と泣いていたとき、その親は毅然としていなくてはならないわけです。
「こんなときこそお母さんがしっかりしなくちゃね」みたいな台詞を、あなたも”似たようなテーマの番組(ドラマや映画も含む)”で聞いたことがあるでしょう。
なので、そうやって「涙を拭いたひと」を「後から見かけた」とき、あたかも「泣かなかったひと」に見えるからといって、「冷たいやつだ、人でなし」と批判するのはおかしいわけです。
これは役割分担が守られている証拠であり、ですから、武道館にも1人ぐらいカラっとした人間がいてもおかしくないのですが、実際そうはなっていません。
つまり、何が言いたいかというと、「みんなが一斉に泣いていたら、いったい誰がハンカチを用意するのか問題」*2とでもいうべきものが、ここではスルーされているのです。
(アソコの)血と涙
筆者はこれまで「24時間テレビ」を何度も見てきましたが、いつも”偽善っぽい感じ”というか、何らかの違和感を受け続けてきました。
似たような経験をしたひとも多いのではないかと思いますが、その原因として考えられるのが、この点なのです。
ここまでのことを踏まえると、要するに「24時間テレビの視聴者」には、「分かりやすい感動を求める傾向」があると言えるわけで、それは「記号的な人物を好む」ということです。
○見るものすべてに涙を流すような、極めて分かりやすいやつ
×(涙を枯らした)前後の文脈が分からないと、一見して冷たく見えるやつ
つまり、こういうことですね。
ここで、突然、話が変わるようですが、世の中には「処女スキー」というのがいます。
「処女以外愛せない」という、これは極めてエッジの利いた人種なのですが、彼らは「処女膜が破れて出血する」→「自分がはじめての彼氏である」という確認のステップを踏まないと、異性を愛することができないひとたちなのです。
これを変換する、つまり「ひとを愛すること」→「相手を(心の優しいひとだと人格的に)評価する」、「破瓜の血」→「涙」というふうに置き換えると、両者がまったく同じ思考形態を持っていることが分かります。
つまり「24時間テレビの視聴者」は、「涙を流さないと、相手が感動していることが分からない」のであり、それは「心の処女膜を求めている」ということなのです。
なぜパーソナリティが毎年変わるのか
このようにまとめると、あまりに単純なひとたちだと言わざるを得ませんが、まぁ所詮、テレビなんてそんなものなのでしょう。
番組のパーソナリティが毎年のように変わるのも、軽薄さの表れだと言うこともできるのですし。
ただ、これに関しては、キャスティングする側の事情として、少しだけ慮れなくもない話です。
なぜなら、「こころの処女膜」というのは、一度失ったら、もう戻らないものだからであり、「パーソナリティには必ず『それ』がついていなければならない」からです。
はじめて番組のパーソナリティを勤めたのは、あの「欽ちゃん」こと萩本欣一ですが、彼がどれだけ「いい人」であったとしても、毎年つづけていては、今頃「いい加減、涙も枯れ果てた」状態になっていたはずです。(徳光和夫のようにウソ泣きでもしない限りは)
よって、この「視聴者にとって分かりにくいタイプの『いい人』(=涙は流さないが、心は熱い人)」を避けるためにこそ、つねに新鮮なパーソナリティが求められるのです。