K-POPから読み解くアジアのメディアリテラシー――1位:日本、2位:韓国、3位:その他アジア
おとといのエントリでは、2010年のKARAの日本国内における活動について論じました。
今回は、それをベースにしつつ、「日本」を出て「アジア全体」についての考察を、「KARAと少女時代の活動を併せたもの」として論じたいと思います。
ギョーカイ用語と親近感
おとといのエントリでキーワードになっていたのが「親近感」でした。
K-POP全体についてはともかく、日本のバラエティで引っ張りダコだったKARAに関しては、間違いなく「親近感がある」と言っていいでしょう。
ですが、そもそもの話、「会ったこともない人(芸能人)に親近感を覚える」というのは、どんな心理状態なのでしょう。
芸能人というのは、はやい話が「テレビの中の人」ですが、これは昔、誰もが「スター」と呼ばれ、「住んでる世界がちがうひとたち」と思われていました。
いわく――テレビという物体の中に住んでいる小人だと思ってた。
これは「テレビの中=業界」があまりに未知の世界だったために起きた勘違いで、メディアリテラシーが浸透すると、芸能人は「スター」から「等身大の存在」へと格下げされます。
その証拠が「ギョーカイ用語の浸透」です。
言語とは文章であり、文章とは名前です(――このフローのことを「文化(文章化)」といいます)から、芸能人の話すことばの模倣は、そのまま彼らに「なる」ことを意味します。
文明が進んだ国ほどタレントはバカにされる
これは「イコール/=(なる/成る)」を意味しますが、次第に「>(小なり/小成り)」に変わっていきます。
芸能人はいつしか「一般人より下の存在」になっていくのであり、この代表が日本だとスザンヌや里田まいのおバカタレント、アメリカではパリス・ヒルトンといったバカセレブになります。
こうした「親近感かそれ『以下』の感情」を抱かせる芸能人が、「テレビタレント(≒ゴシップを賑わせるひと)」として売れていきます。
翻って、話はK-POPですが、その代表である少女時代がアジア中を席巻した一方で、KARAの人気はいまひとつです。(→YouTubeの動画再生回数)
これは何を意味するのでしょう。
いま説明した現象、つまり「タレントの権威が落ちていく過程」とは、「文明の成熟の過程」と重なるものです。
要するに、文明が成熟した国ほどタレントは下に見られます。
「踊るマハラジャ」とK-POPの相似
逆にいえば、「後進国ではタレントがスター扱い」されます。
いま20代以上のひとなら以前、日本で「ムトゥ 踊るマハラジャ」というインド映画が流行ったのを覚えていると思います。
あそこに出てくる大時代的な感覚、つまり「主演俳優が銀幕のスターっぽい感じ(金歯・高級外車・ミンクのコート)」が、あくまで「レトロ趣味」として消費されていたことも覚えているでしょう。
あれはアメリカでもヒットしたようですが、逆に、インド国内では「最先端だ」とされていたのです。
こう考えてみると、「先進国バリバリの日本に住んでいるファンが、芸能人をスターとして扱うことの違和感」が分かるはずです。
日ごろ、国内の芸能人を「下ないし対等なもの」と見なしているひとが、急に海外のスターとなったとたん、目の色を変えてしまう。
それでもハリウッドスターとかならば、まだ話は分かります。
日本人には欧米人に対して憧れがあると同時に、決して寄せ付けないバリアーを張るところがありますから。
メディアリテラシーと民度
問題なのはK-POP勢です。
このあたりは難しい問題かもしれませんので、補助線として、1つの例えを引きましょう。
文芸の世界では「ミステリ」について、「民主主義の浸透していない地域では売れない(書かれないし読まれない)」という常識があります。
これは「作品の理解」において「メディアリテラシー」が必要だからです。
「ミステリ」は大抵、「警察官」ではなく「一般人」が「事件の謎」を解きます。
ここで読者が考えることは、「ある俳優」が「スターっぽい」か「庶民派」かを判断するようなもので、「その探偵」が「警察の代わりに事件を解決できる大人物かどうか」なのです。
また「民主主義」は「社会主義」や「未開状態」とはちがいます。
「お上が決める」とか「自然とそうなる」といったシステムではなくて、「市民が自分で決める」という合理的なシステムを採用するのです。
よって「そこに暮らす人物」は、たとえ「現実の人間(読者)」であろうが「小説の中の人物(探偵)」であろうが、「事件の結論(犯人の指摘・動機の断定など)を自分で決めること(民が主になる=民主)」に挑まなければいけません。
「ミステリの消費には民主化が不可欠だ」というのは、そうした意味です。
アジア全体では少女時代>KARAであることの意味
未だ社会主義から抜け出せない中国では、このジャンルが非常に乏しく、武侠小説ばかりが売れています。*1
これと同じことが「タレントの消費」にも言えます。
「タレントの個性」を理解するためには、「それ相応の準備(メディアリテラシー)」が必要です。
それはまず、「芸能人は自分たちと同じ世界に住んでいる人間だ」という認識として起こり、例えば「ギョーカイ用語の浸透」です。
「お上」である「タレント・業界人」に限定されていた「ギョーカイ用語」の「使用」が「民営化(民主化)」された、というわけです。
次に起こるのは「その徹底」で、「芸能人は所詮、演じられたキャラに過ぎない」という「さらなる舞台裏の開示」です。
結果として「おバカタレント」が登場し、彼らが「最先端のタレント」として活躍します。
そのマーケットが存在する国が、「メディアリテラシー先進国」だということになるのですが、筆者の知る限り、それはアジアで「日本だけ」です。
つまり、少女時代がウケているタイなどの東南アジアの国々は、「日本よりもマーケットが成熟していない国」なのであり、「そちらでKARAが売れなかったこと」は、「彼女たちが少女時代よりレベルが高い」ことの証拠なのです。
シャリースの全米ヒットの意味
具体例を挙げますと、最近話題になった、フィリピンのシャリースという歌手がいいでしょう。
「アメリカのアルバムチャートで初のトップ10入り」という点で注目された女性なのですが、これは要するに、「あのカッコいい国・アメリカで売れた!」という現象でしょう。
アメリカを「お上の国」だと見なしている証拠であり、これはフィリピンが「メディアリテラシー後進国」である証拠です。(だいたい、アメリカ人全員に審美眼があると信じていることが愚か)
これは感覚的にいって、「後進国の人間にもハリウッド映画は理解できるが、中身は低俗である」という認識とリンクするのではないでしょうか。(→先進国と後進国がエンタメでつながるとき、文明の優劣が如実に表れる)
むろん「内容」についての話ですから、これはそれらの「商品」としての価値について言及していません。
同様に、少女時代についても、「タレントとしてのレベル」の話をしているのであり、彼女らの音楽性に踏み込んだ話ではありません。
「文化」の価値とは本来、相対的なものですし、タイ人が少女時代にキャーキャー言おうが、それは彼らの勝手なのですが、「文明」の度合いといった観点から見れば、それは明らかに劣性なのです。*2
この点で、発信地の韓国では、すこし事情がちがっています。
まとめ
なぜならKARAは「生計型アイドル」と呼ばれ、ほかのK-POPアイドルとちがい、バラエティ番組での「素の表情」で親しまれていたからです。
これは「スターを信奉する」というより、「歌のうまい友達に感心する」といった感覚ですから、韓国人のメディアリテラシーは、「日本以下だが、ほかのアジア諸国よりは上だ」と言えます。
こちらの具体例はWonder Girlsです。
彼女らのアメリカでの最大のヒットは「Nobody」ですが、これは「韓国音楽の最大のヒット(@アメリカ)」でもあり、成績としては「シングルチャートのトップ100に入った」というに過ぎません。
これは、ここまで見てきた観点から考えれば、「韓国がフィリピン(シャリース)に負けている証拠」というよりも、むしろ「勝っている証拠」なのです。
かように、昨今の「メディア的状況」というのは複雑であり、一概に「売れた」「売れていない」が判断できないのですが、注意深く見ていけば問題はありません。
結論です。
2010年のK-POPのブームはアジア全体で捉えるべきもので、それは「各国の文明の度合い」を「メディアリテラシーの観点」から測る道具だ。結果として、日本がトップ、韓国が2位、ほかの国が3位だと分かった。