なぜ批判ばかりされる政治家が選挙に落ちないか
以前に投稿したこちらのエントリについて、少し付け加えておくべきことを見つけました。
政治家やタレントの言動を分析する専門家に気をつけろ
http://d.hatena.ne.jp/salbun/20100902/1283397519
タイトルが意味しているのは、「日本人の行う心理分析はアメリカ式なので、大抵まちがった結果が出る」ということなのですが、それが当の「批判された政治家」にとって、むしろプラスに働いてしまうということを、ここでは論じたいと思います。
あえて不正解を選ぶ日本人
以前、どこかの本で読んだ心理学の実験*1に、興味深いものがありました。
いくつかの条件があるので、書き出してみましょう。
・日本人のみのグループと、アメリカ人のみのグループがいる。
・それぞれのグループに問題を出す。
・本当の被験者は各グループ1人だけで、あとは偽の被験者(サクラ)である。
・問題は「線分Aと線分Bのどちらがより長いか」のような、解を数値化できないものである。
・問題は通常(個室で1人で解く場合)、誰もが100点を取れるものである。
サクラには予め答えが教えてあって、実験者の指示どおり正解したり不正解したりするのですが、これに「真の被験者が影響を受けるかどうか」というのがその趣旨です。
ここで出た結果というのが興味深く、日本人とアメリカ人の被験者では、ちがった行動が見られました。
アメリカ人被験者の場合、サクラが「正解」「不正解」のどちらを選んだとしても、「クイズに正解し続けた」のですが、日本人の場合はちがっていて、「不正解を選ぶ回数が増えた」のです。
こう書くと、読者は、「日本人の場合、正解を知っていても周囲に合わせて不正解を選んだ(=同調した)のだろう?」と思うかもしれませんが、ちがいます。
これはアメリカ人にまったく見られなかった傾向なのですが、日本人は「サクラが正解を選んだとき」、むしろ「不正解を選ぶ」傾向にあったのです。
×周囲が「不正解」を選んだので、自分も引っぱられて「不正解」を選んだ(同調)
○周囲が「正解」を選んだので、自分はあえて「不正解」を選んだ(反同調)
言い換えれば、アメリカ人が周囲の影響を受けるのは「正解に近づけると思ったとき」なのですが、日本人は「答えが全員おなじになってしまうと思ったとき」なのです。
ここから分かるのは、「日本人が画一性を異常なまでに嫌っている民族だ」ということです。*2
政治家批判の機能
心理学の実験によって得られたデータは、とくに断りのない限り、その被験者(ある日本人)と同様の性質を持つひと(すべての日本人)にも言えると考えてよいわけですから、これは日常生活のおよそすべてに敷衍させることができるものです。
冒頭に戻りましょう。
政治家批判というのは、ふつう「当該の人間を貶める」ために機能し、あるいは「政治家が選挙に落ちる」ように働くものなのですが、それは(少なくとも)日本において極めて弱い形でしか現れません。
なぜなら、「ある政治家批判」が起こったとき、そのムーブメントが大きければ大きいほど、「日本中が画一的な論調に支配される」ことになるからです。
先ほどの実験から、日本人は「画一性を嫌う」という傾向にあることが分かっていますから、「マニフェストやアジェンダをまったく無視する」という条件の下でなら、「批判されていない人」より「批判されている人」のほうが支持されやすくなるのです。
さらに言えば、「小規模の批判」のときと「大規模の批判」のときでは話がちがいます。
「そのような傾向にあるひと(=弱い者いじめ反対!派)」の数は、批判の規模に比例して多くなっていくのです。
批判の規模(比率) | 支持者の数 |
---|---|
小規模(1) | 100人 |
中規模(10) | 1000人 |
大規模(100) | 10000人 |
規模の拡大→画一性の増大ということですから、これは「日本国において当然の結果」です。
よって「有名で影響力が大きいが、そのぶん批判も良くされる政治家」というのは、滅多なことでは選挙に落ちないのです。*3
選挙はコミュニケーションの一環である
むろん同様のことはアメリカでも起こり得るでしょう。
しかし、それは根本的な原因がちがうものであり、アメリカで起こるそれは、「たまたま天邪鬼な人間が支持者に多くいた」というだけのことなのです。
全国どこでも見られる現象ではありませんで、日本では、それが全国規模で起こりえるという点が大事なのです。
また「批判されるほど有名になる」という構造は、政治だけに留まらず、日本人の日常的なコミュニケーションにも共通してあるものです。
例えばお笑い芸人の小島よしおは、「サムい」とか「いつもスベってる」とか言われていますが、「いつも」という時点で、「彼はよくテレビに出ている」ということが分かり、「なぜスベるやつが呼ばれるのだ?」という話になります。
これは逆にいうと、「笑いの天才」と言われた松本人志が、「なぜテレビでコントを作れなくなってしまったのか」といった問題と、ちょうど裏表の関係にあります。
簡単にいえば、松本に対する評価は、(アメリカ式であり、現状の)日本人にとって地に足の着いていないものなのであり、言い換えれば「過大評価」になっているわけです。
むろん、松本が果たした役割は「笑いの神」と呼ばれるに相応しいもので、実際、それは「お笑い芸人として」というより「文化人として」のほうが、評価基準としては適切なものです。
この問題は追って詳細に論じるべきことですが、それは一旦おいておくとして、小島への「低評価」は、その反動と言えます。
小島の問題も、先ほどの政治家の問題も、「批判されるやつこそよく呼ばれる(= 一種の弱いものいじめであり、同時にいじめられっ子の救済でもある=画一性を忌避する日本人のバランス感覚の発露)」という現象の典型という意味で、実はおなじなのです。