相撲の八百長疑惑についての報道がおかしい件
「力士が証言したから八百長はあった」
このような論調で統一されているようですが、まったく意味が分かりません。
「力士本人からの証言」に何の価値があるというのでしょう。
というのも、朝昇龍の「横綱の品格問題」のとき、世間は「ガッツポーズしたって横綱の品格にはもとらない」と彼が訴えたのに対し、「それは力士自身が決めることではない」と一蹴したからです。
これは「横綱の品格」について提出された「朝昇龍自身の証言」が、「問答無用で却下された」ということなのです。
ならば「今回の騒動」についても、「八百長をしたという力士自身の証言」は「問答無用で却下」されるべきなのではないでしょうか。
実際、それはもっと「物的な証拠」によって決められるべきなのであり、世間は「メールの内容がそうだ」と言うのかも知れませんが、これは間違いです。
なぜなら内容は隠語ばかりではっきりせず、「20万」が「円」なのか何なのか、それすら分からないからです。
やはり「力士自身の証言に証拠能力はなく、八百長は疑惑のままだ」と言うほかありません。
あるいは仮の話として「力士にも証拠能力はある」という方向で考えたにしても、「証言の精度」の問題があります。
ふつうスポーツというのは「どのプレイヤーも人間としては平等」なのですが、相撲の場合「ランクが上にいくほど人間的な信頼度が上がる」という「人格の優劣(横綱の品格問題)」が考慮されるため、今回証言した「名もない力士」の言うことはスルーすべきなのです。
要するに、ここでは正しい意味で「ザコに発言権はない」のであり、これが「角界の品格」なのです。
もちろん「世間」からすれば「成績によって発言の許可が下りないなんておかしい」と思うのでしょうが、その「世間」は朝昇龍問題のとき「品格は考慮すべきだ」と結論付けたのですから仕方がない。
その力士の証言を「信頼すべき証拠」として採用してしまうと、前回と今回で言っていることがズレてしまい、「世間(世論)という裁く側の信頼」が失われます。
やはり、当の力士の言うことは「下っ端の妄言」としてスルーすべきなのです。
また「八百長」がなぜいけないかというと、「勝敗が土俵の外で決まるから」ということですが、「土俵の外での振る舞いによって横綱の品格が決まる」という結論がある以上、その理屈はまったくもっておかしい。
「土俵の中で大事なことが決まらないように仕向けている」のは、ほかならぬ「世間・世論」なのですから。
簡単にいえば、「相撲」とは「土俵の中=選手」が「土俵の外=世論・メディア・横綱審議委員会・世論」に対して隷属するという、世界で稀に見る「人格の優劣が問われるスポーツ」なのです。*1 *2