2010年のKARAの日本での活動のまとめ(2)――「純粋アイドル」としてのテレビ出演
昨日の続きです。
2010年の日本のテレビはK-POPのグループに席巻されましたが、とくに目立っていたのがKARAの活躍です。
音楽の面では若干、少女時代のセールスが上まわったようですが、これは誤差と言えるもので、「バラエティへの出演ラッシュ」を考慮すれば、KARAの圧勝だったと言えます。
また、これは昨年の東方神起以上のもので、「日本でもっとも売れたK-POPスターになった」と言っていいのではないでしょうか。
今日は、この秘密について考えていきます。
ポイント1:少人数であったこと
「なぜKARAだったか」という問いに対して、まず考えられるのが「少人数だから」というものでしょう。
筆者はKARAの出演したものをすべて見ましたが、100%の確率でメンバーが自己紹介していました。
来日前からメンバーの顔と名前が一致していた筆者にとっては、苦痛以外の何ものでもありませんが、初見のひとにとっては重要です。
ただ、自己紹介というのは曲者で、必ずしもメンバーの素のパーソナリティが出るとは限らないのです。
自己紹介には、本人の願望が出てしまうものであり、そうしたキャラの使い分けに対して、日本人はとても敏感なところがあります。
よって、タレントはなるべくアドリヴでコミュニケートするべきであり、この点で少女時代は絶望的です。
人数がKARAの倍いるわけですから、その「作りごと」に倍の時間が掛かり、その後の大切なアドリヴのパートが激減してしまいます。
ポイント2:ソロでなかったこと
こういうと、「じゃあソロが一番よかったのでは?」と思うでしょうが、日本人はそれを好みません。*1
AKBやモーニング娘。をはじめ、男性までもがこぞって大人数になろうとするのは、日本人が「比較対照によってキャラを把握する」という癖を持っているからです。
例えば「総理大臣と天皇」「米軍と自衛隊」というように、国体はその重心の一極集中を避けていますし、これは最小単位として「学校のクラスで班をつくる」というところまでつながっていきます。
KARAはこの「班の人数」にぴったり当てはまります。(最近は少子化ですしね)*2
むろん「強烈な個性」があれば話はべつですが、K-POPのタレントたちは日本語に不慣れなため、仮に個性があっても表現することができません。(また個性が強すぎるとグループが成り立たたない)
要するに、「多すぎず、少なすぎず」といった微妙なさじ加減が、日本のテレビで活動するグループには求められるのであり、外国出身者のみで構成される場合、若干少なめになるべきなのです。
親近感とスター性のあいだで
また、ここから分かることがあって、それは「K-POPファンの欺瞞」です。
「めざましテレビ」のような情報番組が、ときおり新大久保のコリアタウンに行って、「K-POPグループのどこが好き?」と質問していますが、これに対してファンは「日本のアイドルとちがってスター性があるところ」と答えます。
ただ、いま見てきたように、日本人は「スターという作られた虚像」を否定します。
さらに「キャラを比較対照で捉える」という発想は、「興味の分散」を招き、「スター」をそのまま「空に輝く星」と捉えるなら、それは「単体」ではなく「星座」へと興味が移っていくことを意味します。
これは続けて「星座=神々の物語」への興味となり、最終的に「神話の体系」や「ほかの星座」にたどり着きます。
これが「K-POPのマーケットの動向」や「ほかのグループ」といったものに、彼らの興味が移っていくようす(例:東方神起の穴を2PMが埋めてくれた云々)に重なります。
本当に彼らにスター性があるのなら、そんな「移り気」は許されないのではないでしょうか。
べつに、筆者に彼らの「タレント性」を否定するつもりはありませんが、その「質(中身)」について間違った認識があるのではないかと、そう言っているのです。
純粋アイドル的状況としての「TFP」
それを証明するのがKARAです。
筆者は以前、こちらのエントリで、「アイドルの命は動きである」と書きました。
AKB48のチームAとB、「森田一義アワー」に出る。
http://d.hatena.ne.jp/salbun/20100820/1282282322
要するに、「アイドル」は「トークなんてできないんだから面白い動き(ジェスチャー・手話)でもしとけ」ということであり、これはそのまま「外タレ」に当てはまります。
というより、「それ」がもっとも必要なのが外タレですから、「バラエティ番組」におけるKARAは、ひとえに「純粋アイドル的存在」とでもいうべきものでした。
その意味で「東京フレンドパーク」(TBS)への出演は白眉です。
何といっても、「ひたすらに動き続ける」という、その番組内容でしょう。
この番組にスポーツ選手や俳優がこぞって出演することの意味が、これで分かろうというものですが、KARAもさまざまな見せ場をつくって、視聴者を楽しませてくれました。
アドリヴの言動が求められるせいで緊張していたのでしょう、「動きがオーバーで滑稽」になっていたのです。
予告
そして、この「オーバーで滑稽」という点こそが、「彼らがスターというより庶民派だ」という証拠だと思うのですが、K-POPのファンにとってはちがうのでしょうか。
それともKARAだけは「スターじゃない」と思っていて、ほかのグループは「スター」なのか。
これに関しては、ここで答えが出せません。
さて、このように2010年のKARAは、「純粋アイドル」とでも呼べるような極めてクリティカルな存在足りえていて、それゆえに愛されたのだと考えられますが、実はこの批評性は、日本国内をはみ出てしまうものでした。
これはKARAと合わせて、2010年の少女時代がどのように活動していたのかを見ていくことにつながっていきます。
それについては明後日に譲りましょう。
明日は日本のアイドルの2010年を振り返ります。