萌え豚っていうな!

萌えヲタのことを萌え豚となんの根拠もなく言うのを止めさせることを目的としたブログ。自分で言うことも含む。

就職難なんて存在しない。

 夕べ、「日本の、これから」(NHK)という番組で、就職難について取り上げていました。

 テレビの討論番組というのは、いつも不満が残る内容なのですが、それは今回もおなじです。

 年の瀬になり、あと数日で新年がやってくる(就職活動の本格化)ということで、筆者なりに思ったことを書いてみたいと思います。

 たとえ当事者でなかったとしても、「就活について考えているひと」の助けになりますように。

世の中が騒いでいるのは「就職難」ではなく「被雇用難」

 いま就職活動の時期が早まっているといいます。

 1年生の時点でセミナーを受けに行くひとが爆発的に増えており、件の番組でもスタジオには高校生の顔がちらほら。

 これを指して「就職難は深刻だ」というひとがいるのですが、そんなもの自分で起業すればいいのです。

 いまなら「1円起業」がありますし、たとえ失敗したとしても、「近所でちょっとした小遣い稼ぎをしただけ」なのに、「あたかも大事業であったかのよう」に面接で語れば、「なんて行動力に溢れた若者なんだ」とバカな担当が騙されるに決まっています。

 (※併せて、「1人で働くうちに、仲間といっしょに働くことの価値に気づいた」とか言えばパーフェクト!)

 それをしないのは、面接を受ける側に、「自分のやりたいこと」が見つかっていない証拠です。

 そんなやつがこのハケン時代に就職して、活躍できるわけがありません。

 要するに、彼らは「雇ってもらいたい教」の信者なのです。

「お祈りメール」の空しさの正体

 これは「面接を受ける側」への苦言ですが、次は「面接する側(企業)」への苦言です。

 いま「お祈りメール」ということばが流行っていて、これは面接に落ちたとき送られてくるメールのことです。

 自分で落としておきながら、定型文で「ご発展をお祈りしています」とか何とか、みょうな空しさを滲ませた仕上がりになっているため、あちこちで揶揄されているのです。

 ただ、以前から電話による同様のメッセージは存在し、「お祈りメール」などという皮肉なネーミングがなされたのは突然だったわけですが、これにはちゃんと理由があります。

 それは社会の価値観が変わり、「個性の尊重」といった観点が生まれたため、企業には「なぜ落としたのか(=何が足りなかったのか)」の説明が求められるようになったのです。

 「お祈りメール(定型文)を送った」企業は、その点で至りません。

 要するに、彼らは、「学生が無個性、われわれが個性。よってわれわれが選ぶ側」という妄念に取り付かれた、愚か者の集団なのです。

Wiki的労働と電子辞書的労働

 要するに、「選ぶ側」も「選ばれる側」も、何も分からずにもがいているのです。

 ただ、それは汎時代的な現象であり、問題になりません。

 大事なのは同時代的な現象であり、それは「被雇用幻想が最後の輝きを放っている(イタチの最後っ屁だ、ということ)」です。

 「辞書」というテーマで考えてみましょう。

 ネットには辞書機能があり、代表はWikipediaですが、これはネットの拡大とともにユーザーを増やしています。

 ジミー・ウェールズの収入もさぞ増えていることでしょうが、同時に、ユーザーを増やしているのが電子辞書で、ここ10年のあいだに売り上げが5倍になったそうです。

 前者は無料で、後者は有料ですが、どこにだってネット環境はあります(おまけにパソコンは安いし&便利です)ので、「なぜあえて金を払う?」というのが正直な感想です。

 ユーザー層を見てみると、ネットは若者、電子辞書は老人ですから、これは老人が「ネットにつながることを恐れている証拠」だと言えます。

 ここから分かるのは、「職能を提供する」というとき、世の中は「就職しない方向(Wiki的労働)」に傾いているのに対し、一部では未だに「就職する方向(電子辞書的労働)」に傾いているということです。

「とりあえず面接」の意味

 世の中には「職に就く」ことについて、「メイン」と「アンチ」の2つの流れがある。

 就活に絡めて言えば、こんな話があります。

 「本当は就職する気がないんだけど、親の手前、面接に行ってきたよ。落ちたけどね。まぁ大手だったから、親も満足したみたい。最初から分かってたことだし」

 これには、ちゃんと由来があります。

 世の中が「Wiki的労働」のほうに向かっていて、子供はそれに気づいているのですが、彼を管理する立場にいる親の側は、いまだ「電子辞書的労働」の世界観から抜け出せていないのです。

 簡単に言えば、それは「する必要のない就活」であるため、「身が入らない」し「大手を2〜3社落ちた」というだけで「もう嫌だ」とグズグズな結果になる。

 むろん本当に切羽詰っているのなら話はべつですが、いまの日本人の貯蓄率を考えれば、30才ぐらいまで食べさせていけるだけの余裕など、大抵の家庭にはあるものです。

 (※例えば、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の父親が、なんだかんだで娘(桐乃)のオタク趣味を認めてしまったように)

本当に問題が存在するのか?

 このこと(経済的余裕)を、子供はうすうす感じているのではないでしょうか。

 実際、焦ることはなく、それでニートを気取っていられる*1のですが、親は「結果を見せろ」とせっつくので、「とりあえず受けましたよ」と言う。

 (※桐乃は「いい子」を表面的に装う)

 さらに彼の親のような「電子辞書的労働」の信者は、いわゆる「所属への憧れ」がありますから、大手であるほどに喜ぶというわけで、「落ちることが明白」であるにも関わらず、彼は「大手ばかり受ける」のです。

 筆者には、これらすべてが茶番であるように思えてなりません。*2

 【参考】
 妹萌えの正体――「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」から考える
 http://d.hatena.ne.jp/salbun/20100813/1281656684

*1:有名な「働いたら負けかな」というセリフは、「Wiki的労働」を望むものが「電子辞書的労働」に対して反旗を翻そうとしている様子のあらわれと言えます。

*2:じゃあ収入どうすんの?といった問題は、ベーシックインカムとかいろいろ論じることがあるので、別のエントリへ持ち越します。