相次ぐ「問題授業」について――数学はそもそも殺人である
「酷い内容の授業をした教師がいる」という報道に対する、コメンテーターの酷い反応
http://d.hatena.ne.jp/salbun/20100916/1284607864
以前、このようなエントリを書きましたが、またもや似たようなことが起きているようです。
不適切クイズ:正解は「妹を殺す」 東京・杉並の小3教諭 −毎日jp(毎日新聞)−
http://mainichi.jp/life/edu/news/20101024ddm041040056000c.html?link_id=RLH05
前回と同様、いちいち内容には触れることはしませんが、「問題授業」は算数や数学に多いようです。
これが何故なのかを、以下で考えてみましょう。
「数式」と「人間の行動」の等価交換性
「問題授業」と呼ばれるものは、どれも「人間の悪意ある行動を数学に置き換えたもの」と言えます。
これが「不適切だ」「問題だ」と言うのがメディアなのですが、そもそもの話、数学とはそういうものです。
例えば、「1+1=2」という式(解)は、なにもないところから生まれたわけではありません。
人間の行動を数値化した結果として生まれたものであり、それは「男女が結婚するようす(男:1+女:1=夫婦:2)」を表したのが、その起源だったのかもしれません。
よって、「2÷1=2」だって、次のように解釈することができます。
人体(右左) | を | 刃物 | で切り裂くとき | 肉体はいくつの部分に分かれるか? |
2 | ÷ | 1 | = | 2 |
「数学の真実」を生徒に教えるか否か?
数式というのは本質的にこういったものです。
このように考えると、なぜ「問題授業」が数学や算数に多いのかいう、冒頭に掲げた謎が解けるわけですが、筆者が言いたいのはそのことではありません。
ここで真に考えるべきなのは、こうした「数学の真実」を、どこまで生徒たちに教えればよいのか?ということです。
「数学」というのは、本質的に「人間を物体として無残に扱う道具」なのであり、「教育」とは「そのことを隠蔽する装置」として機能しているのが現状です。
ここに変化を加えて、「教育とは数学の真実を伝える装置である」としたほうがいいのか。
この問題は教師だけではなくて、日本に住むすべての人が考えるべきものです。