ユッキーナ、フジモンと入籍へ
何だかカタカナばっかりで外人かよと思いますが、もちろん日本の話です。
キャラとはちがって美少女であるという点から、ユッキーナがフジモンと交際〜ゴールインに達したことは、意外に思うひとも多そうです。
でも、筆者にはすごく納得ができるのですよ。
これは交際が報じられた頃から思っていたことですが、ユッキーナは意外とファザコンかもしれないからです。
ヤンキーはむしろ「体制」に従順である
彼女は言わずと知れた「ヤンキーあがり」ですが、ヤンキーというのは「やんちゃ」な青春を送ってきたひとたちです。
尾崎豊の「卒業」という歌にある『夜の校舎/窓ガラス/壊してまわった♪』という詞に象徴される、あるいは「3年B組金八先生」の第2シーズン『加藤優の乱』に象徴される、「大人への反逆」というやつですね。
ところが、その「卒業」へのアンサーソングとして作られた、とんねるず「一番偉い人へ」には、こうあります。
卒業することで終わった
大人たちを非難すること
社会とは窓ガラス割らないルール
作詞:秋元康
つまり、「窓ガラス」をただ割ればいいってもんじゃない、「反逆」のすべてが「大人」に向けられるとは限らない、ということです。
この曲も「一番偉い人へ」向かって、『俺たちはいまなにをするべきか♪』と訴えていますが、「その相手(一番偉い人)」は「窓ガラスを割ったら怒ってくるひと=学校の先生」「退学になったら悲しむひと=家族」といった単純な図式ではありません。
だからこそ、とんねるず=秋元康は、『窓ガラス』のような攻撃対象を持ちません。
それどころか、
群集になんてなりたくなかった
俺は俺だと叫んでいたいよ
ラッシュアワーに踏まれている
安いプライド
このように「攻撃される側」にさえなってしまい、その加害者は「ラッシュアワー」という「無個性な群集(=反撃することができない透明な主体)」でさえあるのです。
このような「安いプライド」を持っている人間というのは、「大人(自分より年長の誰か)」というのは「反撃するに値しない」と考えているのであり、「大人を信用していない」と言えます。
逆に言えば、ヤンキーというのは「大人」を信用していることが分かります。
つまり、「窓ガラスを割るぐらいのことでもしておけば、大人だって、こちらを向いて真剣に話を聴いてくれるだろう」と高を括っているわけで、これは大人になって社会の構造を知っていくにつれ、あまりにナイーブな考えだと気づくものなのですが、ヤンキーの世界ではそれが平均的な認識なのでしょう。*1
この(逆説的なものとはいえ)「大人へ向けられた信頼」というのは、「上下関係の絶対視」といった考えにつながっていきます。
バラエティタレントにとっての「体制」とは
ヤンキーがDQNと言われるゆえんでもある、若くして子どもを生むという行為も、ここに由来があると言えます。*2
これはユッキーナにも似たような形で備わっているのだと思います。
彼女はタレントですし、バラエティの常連*3ですから、彼女はつねに高度なコミュニケーション能力を社会から求められているわけです。
それは「場を円滑に運ぶために自分を犠牲にする」という覚悟を促すものであり、まさにヤンキー的な魂が燃える状況だと言えるでしょう。
このたびパートナーとして彼女が選んだフジモンというのは、「顔デカイからや!」のような自虐ネタを持ち味にしていて、ヤンキー的には「フジモンって自分を犠牲にして仲間のためにガンバってるんだ!」と映るのではないでしょうか。
つまりフジモンはリスペクトの対象なのではないかと。
もちろん、もっとほかの「犠牲」がお笑い芸人にはあるのですが、それは女性グラドルで言うなら、少なくとも若槻千夏レベルのお笑いマニア的な素養がなければ理解できないものですし、ユッキーナがそうだという話は聞きません。
よって彼女の目には、フジモンが「バラエティでもっとも見習うべき先輩」のように映っているのだと推測できるのです。
そして、その相手が17歳も年上なわけですから、これはファザコン的な要素がないと言ったら、それは嘘になります。*4
おまけにフジモンにはギャル男っぽいところがあり、テーマパークが好きで「OLか!」とツッコまれるほど女子っぽいところもあるわけですから、彼女にとっては同時に、親近感さえ湧く相手なのです。
よってユッキーナが彼を選んだことは、「尊敬できる」「一緒にいて安心できる」など、さまざまな観点から見て、きわめて自然なことだったのだと思います。