鳩山首相辞任劇にみる日本人の政治意識――ただ「あまのじゃく」なだけ
日本人というのは、おかしな人たちですね。
さんざん「辞めろ、辞めろ」と言っていたのに、いざ辞めてみたら「逃げるのか、無責任じゃないか」と怒り出す。
まぁ、両者は別人なのでしょうが、いずれにせよ、日本人って政治家に文句言いたいだけの「あまのじゃく」なんですよ。
「自己アピールが下手」っていう日本人の特徴がありますが、むしろ、それは悪徳とさえされるわけで、政治家にも同じことが言えるんですね。
「マニフェストをちゃんと守ったこと」をアピールすると、「そんなの当たり前じゃないか!」と怒られてしまうので、「どうせ汚職にまみれてるんだろ?」と疑われるまで待っていなければならない。
そして、そのように国民から「弁明の余地」を与えられて、はじめて日本の政治家は自己アピールができるのです。
派閥争いが激しいのも、そんな中では、いきおい他の政治家の足を引っ張る発言ばかりすることになるからであり、日本の政治の閉塞感は、日本の文化に根ざしているのですね。
あと「自己アピールする目立ちたがり(ひと)」を潰そう、潰そうと目を光らせているやつが五万といるので、「政治のはなし」は容易に「政治家のはなし」になってしまいます。
日本では「政治」と「政治家」がごっちゃにされている*1のですね。
「政治というお芝居を演じるひと」にしか注目していないから、「永田町劇場」といわれる。
「政治そのもの」に注目していたら、そんなことは絶対に言われません。
そして日本は「自己アピール禁止文化」があるので、「とりあえず政治家の悪口を言う」というところがある。
このあたりを押さえておかないと、国を良くしようと思い、政治についての情報収集をいくら行っても、メディアにただ踊らされるだけのアホになってしまいます。
気をつけたいものですね。
(※このエントリ自体が「政治」の話をしていませんが、その理由は後ほど)
*1:テレビの情報番組におけるサッカーが、ゴールシーンばかり流しており、それ以前の展開(パスワークやフォーメーションの構築)という、そちらこそサッカーの醍醐味がある部分をスルーしてしまうのも、日本のサッカー好きが、じつは「サッカー選手好き」に過ぎないからなのです。あと文学や批評における文壇・論壇の閉塞感もまったく同じ仕組みになっています。