マツダの事件にみる、「信用できない証言者」問題
マツダ自動車の工場内で、11人が連続して殺傷される事件が起こりました。
マツダ 事件 −Google 検索−
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詳しくは、こちらで見てもらうことにして、いくつか気になった点を書いていきます。
まず、あちこちで「秋葉原の事件を彷彿とさせる」という意見が出ていますが、筆者もおなじ意見です。
しかし注目しているポイントは、「車で無差別に複数を轢いた」ということではなく、もちろん「轢(ひ)いた」のが「引寺(ひきじ)」という男だったとか、そんなロバート・ラングドン(ダヴィンチ・コード)めいた象徴記号学的な考察でもなく、「動機が信用できない」という点です。
容疑者は動機について「クビにされた腹いせでやった」と言い、マツダ側は「自分から依願して退職した」と真逆のことを言っており、むろん捜査が進んでみないと確かなことは言えませんが、ふつうこういう場合、「発言の信憑性」は「社会的信用」によって左右されるので、「マツダのほうが正しい」と考えるべきでしょう。
秋葉原の事件でも「社会に恨みがあった」と言いながら、マスメディアが取材した情報を見る限り、特別、追い込まれていた様子はありませんでした。
ここで思うのが「容疑者の自白の信憑性」、つまり「自白は証拠の王様」という世間の常識についてです。
スピリチュアル批判のマヌケっぷり
むろん、これはすでにあちこちで疑われていますから、それよりもう少しだけ、深く突っ込んで書きたいと思います。
世の中には「スピリチュアル批判」というのがあります。
「前世が貴族だった」とか「オーラの色がイエローで幸せだ」とか、非科学的なことを言い募るスピリチュアリスト、そして、そのシンパたちに対する批判や揶揄のことです。
「スピリチュアル批判派」のひとたちは、彼女ら(主にスピリチュアル派は女性だからです)のことを「スイーツ(笑)」なんかと結び付けて、「信じられないぐらい知性が足らないやつら」だと言うわけですが、この批判には矛盾があります。
なぜなら、「信じられないぐらい知性が足りない」ということは「理性が働いていない」ということで、この状態にある人間の「発言」は「寝言」に等しいものだからです。
寝言で「バカ」と言われたからといって、裁判所に「名誉毀損」で訴え出るやつはいないでしょう。
これは「寝言」が「証拠としての説得力を持っていない」ためです。
なら「スピリチュアル肯定派」の言う「私はスピリチュアルを信じている」という証言もまた、寝言のように「証拠として不十分である」ため、「スピリチュアル批判派」のする「批判」には「何の根拠もない」ことになります。
つまり、「スピリチュアルを信じているかどうか分からないひと」を「スピリチュアルを信じている咎」で裁いているのです。
「自白は証拠の王様」への根強い支持
このような過ちが、なぜ起こるのか。
それは「自白は証拠の王様」という発想があるためです。
「あるスピリチュアル肯定派を自認する女性」が「本当にそうであるかどうか」を推理するさい、「『私はスピリチュアル肯定派だ』という彼女のことば『のみ』」をもってして「批判派」が裁いている。
これは批判派が、「自白さえあれば十分だ」と思っている証拠です。
これと同じように、「社会を揺るがす大事件がなぜ起きたのか」という推理においても、「引寺容疑者」や「加藤智大容疑者」という「本人」の「自白」がすべてを決めるという発想がまかり通っている。
「相棒」(テレビ朝日)のような刑事ドラマではもはや、「自白は証拠の王様」というテーゼは(一部)否定されていますが、一般社会においてはいまだに根強く信仰されているものなのです。
先ほど「社会的信用」と言いましたが、これもまた「非論理的」「非科学的」な認可に過ぎません。
「ある事件の因果関係」について考察する際、そのための「推理能力」について「事件の犯人がもっとも高く備えている『だろう』」という思い込みがあり、それは「一種の社会的信用である」。
こういう「思い込み」があることを、われわれは自覚すべきです。