萌え豚っていうな!

萌えヲタのことを萌え豚となんの根拠もなく言うのを止めさせることを目的としたブログ。自分で言うことも含む。

マツダの事件にみる、「信用できない証言者」問題

 マツダ自動車の工場内で、11人が連続して殺傷される事件が起こりました。

 マツダ 事件 −Google 検索−
 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLL_jaJP383JP383&q=%e3%83%9e%e3%83%84%e3%83%80%e3%80%80%e4%ba%8b%e4%bb%b6

 詳しくは、こちらで見てもらうことにして、いくつか気になった点を書いていきます。

 まず、あちこちで「秋葉原の事件を彷彿とさせる」という意見が出ていますが、筆者もおなじ意見です。

 しかし注目しているポイントは、「車で無差別に複数を轢いた」ということではなく、もちろん「轢(ひ)いた」のが「引寺(ひきじ)」という男だったとか、そんなロバート・ラングドン(ダヴィンチ・コード)めいた象徴記号学的な考察でもなく、「動機が信用できない」という点です。

 容疑者は動機について「クビにされた腹いせでやった」と言い、マツダ側は「自分から依願して退職した」と真逆のことを言っており、むろん捜査が進んでみないと確かなことは言えませんが、ふつうこういう場合、「発言の信憑性」は「社会的信用」によって左右されるので、「マツダのほうが正しい」と考えるべきでしょう。

 秋葉原の事件でも「社会に恨みがあった」と言いながら、マスメディアが取材した情報を見る限り、特別、追い込まれていた様子はありませんでした。

 ここで思うのが「容疑者の自白の信憑性」、つまり「自白は証拠の王様」という世間の常識についてです。

スピリチュアル批判のマヌケっぷり

 むろん、これはすでにあちこちで疑われていますから、それよりもう少しだけ、深く突っ込んで書きたいと思います。

 世の中には「スピリチュアル批判」というのがあります。

 「前世が貴族だった」とか「オーラの色がイエローで幸せだ」とか、非科学的なことを言い募るスピリチュアリスト、そして、そのシンパたちに対する批判や揶揄のことです。

 「スピリチュアル批判派」のひとたちは、彼女ら(主にスピリチュアル派は女性だからです)のことを「スイーツ(笑)」なんかと結び付けて、「信じられないぐらい知性が足らないやつら」だと言うわけですが、この批判には矛盾があります。

 なぜなら、「信じられないぐらい知性が足りない」ということは「理性が働いていない」ということで、この状態にある人間の「発言」は「寝言」に等しいものだからです。

 寝言で「バカ」と言われたからといって、裁判所に「名誉毀損」で訴え出るやつはいないでしょう。

 これは「寝言」が「証拠としての説得力を持っていない」ためです。

 なら「スピリチュアル肯定派」の言う「私はスピリチュアルを信じている」という証言もまた、寝言のように「証拠として不十分である」ため、「スピリチュアル批判派」のする「批判」には「何の根拠もない」ことになります。

 つまり、「スピリチュアルを信じているかどうか分からないひと」を「スピリチュアルを信じている咎」で裁いているのです。

「自白は証拠の王様」への根強い支持

 このような過ちが、なぜ起こるのか。

 それは「自白は証拠の王様」という発想があるためです。

 「あるスピリチュアル肯定派を自認する女性」が「本当にそうであるかどうか」を推理するさい、「『私はスピリチュアル肯定派だ』という彼女のことば『のみ』」をもってして「批判派」が裁いている。

 これは批判派が、「自白さえあれば十分だ」と思っている証拠です。

 これと同じように、「社会を揺るがす大事件がなぜ起きたのか」という推理においても、「引寺容疑者」や「加藤智大容疑者」という「本人」の「自白」がすべてを決めるという発想がまかり通っている。

 「相棒」(テレビ朝日)のような刑事ドラマではもはや、「自白は証拠の王様」というテーゼは(一部)否定されていますが、一般社会においてはいまだに根強く信仰されているものなのです。

 先ほど「社会的信用」と言いましたが、これもまた「非論理的」「非科学的」な認可に過ぎません。

 「ある事件の因果関係」について考察する際、そのための「推理能力」について「事件の犯人がもっとも高く備えている『だろう』」という思い込みがあり、それは「一種の社会的信用である」。

 こういう「思い込み」があることを、われわれは自覚すべきです。