東浩紀はなぜ迷走したか
東浩紀は迷走している。
そう言うと反対の声が挙がってくるだろう。
彼は有名な批評家に見出され若くしてデビューし、以来、テレビにもたびたび出演してきた。
書籍の売り上げも好調だったし、妻子持ちで、批評家を養成する講座を複数手がけたり、出版やカフェの経営をする会社を起こし、ツイッターのフォロワー数だって文化人として申し分ないレベルにまで達している。
まるでその経歴に汚点などないようだ。
だが彼は明らかに迷走している。
この論考はまずこの点「東はなぜ迷走していると言えるのか」を、問い(1)と設定してからはじめよう。
彼は何者とされるか
彼が迷走しているか否か、言い換えればまちがいがあるか否かは、彼が何者かという定義の後にくる。
そこでまず彼のツイッターのプロフィール(2018年11月19日時点)を見てみる。
批評家、作家。ゲンロン代表。著書多数。早大、東工大などで教員経験あり。むかしはテレビや新聞にも出てましたが、ここ数年は会社経営に挑戦中。メールは会社にください。
批評家が最初に来ている。
彼は自らを批評家と捉えているようだ。
では世間はどう捉えているだろう。
wikipedia(同日付)を見てみる。
東 浩紀は、日本の批評家、哲学者、小説家。学位は博士。ゲンロン代表取締役社長兼編集長。
やはり彼は批評家であるようだ。
彼は実態として何者か
だが自己申告がまちがうことはある。
世間の捉え方が歪んでいることもある。
また仮に批評家だとしても、何を批評するのか。
彼は以前こう話したことがある。
「ぼくは第三世代オタクというその時点では実在が確認できなかったものを予測し、予め背負うことにした。それが批評家というものだ」(意訳。音声コンテンツ「決断主義トークラジオALIVE2」より)
彼は自分をオタクについての批評家だと捉えている。
実際、彼はオタクたちの期待を一身に受けてネットでスターになっていった。
テレビ番組に出はじめたのも「ネットスター」などオタク向け番組だし、ラジオ番組も「オタクのゴタク」などやはり同種のものだった。
彼の実態はオタクについての批評家であり、彼の自己認識もまたそうなのだ。
Key論
だが彼は現在オタクにかんして発言していない。
彼の迷走の根拠は、ここにあることがわかるだろう。
それは具体的に言うとKey論だ。
迷走とは迷いであり、2つのあいだで判断を決めかねている状態だが、彼は美少女ゲームの批評で知られ、その焦点となっていたのがKeyというブランドの作品論だった。
彼が肯定的に論じた作品は「AIR」と「CLANNAD」だが、これはともに恋愛を描いているものの、前者がそれに失敗する話、後者が成功する話だ。
それどころか前者は主人公が人間ではなくなってしまいヒロインも死亡、後者は美少女ゲームの枠を超えて結婚生活までもを描き出したという、ともに例外的な作品だった。
まるで正反対であり、それを強調するかのようにつくられてさえいる。
ならば、これらを「ともに評価する」など不可能なはずだ。
ここに東の迷いがある。
問い(1)の答えはこれだ。
「クォンタム・ファミリーズ」の欠点
これはほかの彼の活動にも影響を与えた。
それどころかその迷走は悪化の一途をたどっていった。
彼は三島由紀夫賞を獲った小説「クォンタム・ファミリーズ」の作者でもあるのだが、これは「妻子持ちの自分がパラレルワールドの子供と出会う」という話、つまり「既婚者と既婚者」の話だ。
作品は作者の内面を表し、それがパラレルワールドを描いているのだから、東の内面は分裂しているわけだ。
ならそれは「AIR」と「CLANNAD」のような形であるはずだった。
だが当該のKey2作は「独身者と既婚者」であり、「クォンタム・ファミリーズ」と矛盾する。
これはある程度嘘が許されるフィクションとはいえ、決定的に東の人生を反映し損ねており、はっきり言って駄作だ。
もし東が迷走していなければ、片一方の世界は、主人公が結婚も子作りもせず人の姿を失っている世界であるべきだった。
ここからわかるのは、美少女ゲーム論においては「分裂」だったものが、小説においては「自己の消失」にまで退化(悪化)しているということだ。
「思想地図」の欠点
次に彼の第一義である批評家としての部分をもう一度みていく。
彼はそのころ(つまりKey論をし、当該小説をものした00年代)に批評誌をやっていて、それが「思想地図」だ。
2期あり、1期は他人と共同だったため、東の色がより濃く出る2期に注目する。
問題はその第1号でショッピングモールを取り上げていたことだ。
これは「既婚者=モール・リアル店舗」の世界であり、対するは「独身者=コンビニ・ネット通販」だ。
これは先ほどのKey作品に対応していることがわかる。
なのに後者しか取り上げないのだから、ここに小説とおなじ失敗が見てとれる。
「AIR」と「CLANNAD」、オタクと一般人、男と夫(父)、オンラインとオフライン。
このように分裂という失敗をした結果、彼はそれを悪化させ、自らの本分であるオタクから離れていき、一般人に逃げてしまった。
いわゆるリア充化というやつだ。
宇野常寛の存在
これで問い(1)にかんする答えは完全に出たと言ってよいが、まだ疑問は残る。
問い(2)「なぜ迷走したか」があるのだ。
ヒントは宇野常寛である。
彼もまた批評家だが、有名になったきっかけが東を批判することだった。
その際、彼は東の「AIR」論を批判して「レイプファンタジー」という語を使ったのだが、ここで「東=加害者」なわけだから、対するは「『AIR』=美少女ゲーム=ヒロインの声優=川上とも子」であるはずだ。
だが宇野・東ともに、ただの一度たりとも名前を挙げていない。
川上どころか、声優の「せ」の字も口にしていないのだ。*1
なぜなのか。
ここに問い(3)「なぜ東は声優を無視するのか」が生まれていることがわかる。
問い(2)「なぜ迷走したか」の前に、こちらを解かなければいけない。
萌えヲタにかんする誤解
(3)の答えの1つはアイドルオタク時代のトラウマだ。
彼は「郵便的不安たち#」で告白しているが、学生時代おニャン子クラブのファンで、好きだった高井麻巳子というメンバーをプロデューサーの秋元康に寝取られてしまったのであり、それが彼にアイドルや声優、つまり擬似恋愛の対象を語ることを遠ざけさせた。
だがそれは本質的ではない。
なぜなら彼女らは所詮、画面の向こうの存在だからだ。
実人生にいる彼のまわりの女性との関係こそが重要である。
彼は学生時代のそれを語っていないが、しかしわかることがあって、なぜならここで問題となっているもの、すなわち「AIR」や声優といったものがすべて「萌え」に関係しているからだ。
つまり東は萌えヲタである。
それは苛烈な蔑みの対象となってきた。
現在、萌えヲタ(声優ヲタ)自身ですら自らのことを「萌え豚(声豚)」と呼ぶほどであり、この事実は萌えヲタの自意識を強く縛り付けている。
まさにそこに問題があり、そしてその問題にはさらに重大な問題が潜んでいる。
それは実際にそう批判された者、つまりオフラインで学生時代にクラスメイトなどからそう罵られた経験をした者など、皆無だということだ。
ネット上ではさまざまな萌えヲタ批判、あるいは彼ら自身による自虐の言説が出回っているが、1つもその証言に類するものはない。
萌えを好む女子学生
ここに問い(4)が生まれていることがわかる。
「なぜ萌えヲタ(東)は要らぬ自虐するのか」。
問い(2)「なぜ迷走したか」(3)「なぜ声優を無視するか」の前に、これを解く必要がある。
さらにいうと、その前に1つ確認しておくことがあり、くり返すが東に対する宇野のレイプファンタジーという批判は、被害者として声優を想定していたわけだ。
ならそれは擬似恋愛の対象だから、その向こう側に透かし見られているのは擬似ではないもの、つまり東の学生時代のクラスメイトだ。
萌えヲタがオフラインで批判されるとしたら、彼女らおよび彼女らのとなりにいる女子たちによってである。
だがWikipediaの「萌え」のページにこんなデータが載っている。
社団法人コンピュータエンターテイメント協会(CESA)は2006年4月24日、一般消費者を対象とした「2006年CESA一般生活者調査報告書」を発刊した。「萌え」の認知度・利用状況について(中略)測ってみたところ男女性別平均の認知度は男性548人中66.4%、女性555人中65.6%であった。「よく知っていて自分でも使っている」と答えたのは男性の場合20〜24歳の8.9%、女性の場合15〜19歳の12.1%が最高であった。
つまり女子学生は萌えヲタより率先して萌えという語を使っていたのだ。
彼女らが萌えヲタを批判などするはずもない。
萌えはかわいいが、女子学生はかわいいものが大好きである。
宇野のギャルの代弁者的イメージ
これは常識とあまりにかけ離れているため、受け入れがたいだろう。
よって情報を追加する。
萌えヲタはオタクの最先端の形だが、オタクは昔からダサいとされるため、そのダサさも最先端であるはずだ。
一方でオシャレで流行の発信源とされてきたのが彼らのクラスメイトの一部、つまりギャル(コギャル)だ。
彼女らは定義上、オタクをそのダサさから忌み嫌っており、宇野の言うことが正しいなら、それに加えて人間性においても同様であるはずだ。
彼女らが萌えなど好くはずもなく、先ほどの調査における「萌えという語を使っていた女子学生」とは「彼女たち以外」であるはずだ。
だから例えば「ギャルで妹ものの美少女ゲームが大好きな萌えヲタ」というヒロイン・高坂桐乃が登場するラノベ、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」など、宇野のような立場からすれば失笑もの以外の何物でもない。
宇野の批判はまったくの無根拠
しかし、である。
ギャルが見る番組の代表は「ランク王国」だが、そこでは毎週必ず萌えアニメのBD・DVD、そしてコスプレのランキングがやっている。
ギャルは萌えを嫌ってなどいないのだ。
当然だろう、ギャルもかわいいものが大好きなのだから。
女性からの萌え批判がオフラインで聞かれないのは、そもそもそんな批判など存在していないからなのだ。
萌えヲタを批判するのはオタクだけで、一般人は単に無視しているだけ。
よって宇野の批判(レイプファンタジー)はまったくの無根拠である。
ここに問い(3)への答えがある。
「東が声優を無視したのは、アイドルや声優の背後にいるクラスの女子からキモがられたと錯覚したからだ」。
だがでは東はなぜそれを受け入れてしまったのだろう。*3
つまり問い(4)「萌えヲタはなぜ要らぬ自虐をするのか」の答えは出ていない。
自虐ナルシズム
その答えは「自虐ナルシストだから」だ。
自虐ナルシズムとは「根拠のない自虐によって『逆説的』かつ『不当に』自己評価を上げること」だ。
たとえば「炎上」というものは「読みきれないぐらいの批判が殺到する」ということだが、読んでいないのに「批判」と決めつけている。
これは批判を使って「逆説的」に自己評価を上げようとしているからだ。
他者からの批判は自己評価を低めるが、それを受け止め反省することで高め、±ゼロに持っていける。
周囲から「反省できる立派なひとだね」と言われることが期待されるからだ。
なら、である。
実在しない批判を使ってそれをし、周囲を騙した結果、周囲の評価だけ得らればもっとよい。
「マイナス」→「ゼロ」ではなく、「虚構のマイナスゆえ実体は±ゼロ」→「プラス」にできる。
むろんそれは「不当」だが、それが自虐ナルシズムなのだ。
レイプファンタジー批判は、この(豚の)ための養分としてぴったりである。
東と宇野という共犯関係
つまりこういうことだ。
まず東は萌えヲタとして批判されたことなど一度もない。
むしろクラスメイトの女子たちはそのかわいい文化を好意的にさえ迎え入れてくれたはずだが、にもかかわらず東はそうしなかった。
(これもまた宇野のことばだが)「安全に痛い自己反省」ができるからだ。
そうやって批判を捏造し、それを受け止め萌えを自重(自嘲)することにより、「世間は俺のことを自己批判できる好人物と高評価するだろう」と期待した。
だからむしろ東は宇野を必要としていたとさえ言える。
東が想定した虚構の加害行為において、それは虚構であるが故、世間は責めてくれなどせず、東の反省のそぶりは空転したが、宇野という輪郭を得て、それはかみ合ったように見えたのだ。
東が宇野という批判者をわざわざ取り込んだのは、そのためだった。*4
この妄想の中で東は「レイパー」であり、相手の女性を深く深く傷つけている設定だから、それついて「語ること」さえ憚られた。
東が声優を語らなかったのはそのためであり、これが問い(3)の答えだ。
レイプの加害者は被害者に謝罪の手紙を書くことさえ憚られるものだ。*5
ゲンロン批評再生塾の欺瞞
東は2010年ごろ、ツイッターで平野綾や豊崎愛生、竹達彩奈といった「ハルヒ」「けいおん」といったアニメの声優たちが次々に起こした恋愛スキャンダルについてコメントを求められたが、すべて拒絶していた。
それもまた宇野=「AIR」の件と同様、自虐ナルシズムのなせる業だった。
だから東はテレビに逃げもした。
声優が登場することがめったになく、しても水樹奈々のような「声優アーティスト」と呼ばれ、「本当に声優なのかどうか」が微妙にぼやかされた者たちしかいない世界に。
そしてそこで一般に向けて「日本2.0」「憲法2.0」のようなアピールをおこなったが、総スカンを食らった。
当然だろう。
東の脳内に声優はおらず、それはまさに「パラレルワールドの日本」だからだ。*6
東はレイプファンタジーの持つ欺瞞から(宇野からではない)逃げるためオタクとネットを捨てようとしたが、それは適わなかった。
現在、ネットに戻ってきて手がけている批評再生塾もまたおなじであり、だからその課題群に「萌え」「声優」「美少女ゲーム」「AIR」といった語は見当たらない。
事実、塾は佐々木敦が直接的に指導しており、東は半隠居状態なのだ。
小まとめ
ここまでをまとめよう。
この論考はまず問い(1)として「東が迷走しているのは事実か」をみてきた。(未解決=(1))
答え(1)は「事実だ。『AIR』と『CLANNAD』という矛盾するものをともに評価してしまったためだ」とした。(未解決=なし)
次に問い(2)を立て「なぜ迷走したか」をみたが、答え(2)は保留したままだった。(未解決=(2))
「宇野にレイプファンタジー批判をされた際、声優を無視した」ことを指摘して、とりあえず問い(3)「なぜ声優を無視したか」と立てた。(未解決=(2)(3))
それに対し答え(3)「声優の向こうにはクラスの女子がいるが、それにキモがられたと妄想したからだ」と論じた。(未解決=(2))
さらに続けて問い(4)「なぜそんな妄想をしたか」と問い、答え(4)「自虐ナルシストだから」となった。(未解決=(2))
また「自虐ナルシストなら声優を傷つけたと妄想し、語ってはいけないと勝手に自重する」とし、それが問い(3)の重ねての答えともした。(未解決=(2))
だがここでさらに問いが立てられる。
(5)「なぜ東は自虐ナルシストになったか」。(未解決=(2)(5))
自虐ナルシズムの源泉
ヒントは東が以前に出演したニコ生だ。
精神分析医の齋藤環と競演し、彼から公開カウンセリングを受け、その際、「急性期反応」が見えると言われたのだ。
これは直前に3・11が起きたため、日本がリセットされてしまい、自分の仕事が台無しになったと思った東が投げやりになったからのように見える。
実際はちがっていて、レイプファンタジーをめぐる自虐ナルシズムがうまく機能しなくなったからだ。
くり返すが、その幻想はクラスの女子に対するものだが、元を正せば親だ。
宇野が「レイプファンタジー」などと非常に性的な語で形容してしまったがゆえに混乱してきたが、「『AIR』=ゲーム=アニメ=声優=萌え=日本=東にとって実家のある場所」という図式からわかるように、それはまず親子関係からはじまる。
東はこれを避けてきた。
たとえば共著「リアルのゆくえ」で大塚英志と対談した際、互いに萌えに関係する批評家だから萌えは重要なテーマのはずだが、セキュリティと地域社会の話になっても一切実家の話は出てこなかった。
親と彼女
これは「親に萌えを話したら嫌われる」という潜在意識があるためだ。
例えばこんな話がある。
いま親世代の目にもっとも付く萌えといえばテレビのスマホゲーCMだが、スマホゲーユーザーのあいだでは有名なのだ、「CMを流すのを止めて欲しい。食卓が凍りつくから」と。
これは萌えが恋愛以前、つまり親子間の承認をめぐる問題であることを端的に示している。
東はこれを解けず、あまつさえ問題の所在に気づきさえせず、萌えを恋愛の問題と錯覚した。
結果、「親→恋愛の成功者→マネすべき相手→自分の恋愛の能力を試してくる相手→恋愛相手→クラスの女子→アイドル・声優」とスライドしていったのだ。
ここで「親(とくに母)と妻(恋人)」はイコールで結ばれている。
この普遍性は「お袋の味を妻(彼女)に教えたがる男」といったようなモチーフとして確認できる。
よって問い(5)「なぜ東は自虐ナルシストになったか」の答えは、次のように言える。
(5)「萌えは親子関係の問題としてあるが、それに失敗した自虐を、気づかずに恋愛の失敗の自虐に重ねたから」。
結果、自虐を実態より根深い(ナルシスティックな)ものにしてしまったのだ。
震災の意味
こう考えると公開カウンセリングの意味がわかってくる。
くり返すが、それは日本がリセットされたからではない。
いやそうだが、意味がちがっていて(だから齋藤もまた迷走している)、東は上記した理由から、萌えの実態を捉え損ね、なぜ自分が社会に承認されないのかの原因をも捉え損ねていた。
東にとって「承認相手=社会=日本」は「萌えが親子問題を孕んでいない虚構の日本」であった。
だから3・11の震災がリセットした「日本」はそれである。
自虐ナルシズムが機能しなくなったのはそのせいだ。
宇野に甘噛み(安全に痛い批判)をさせておき、恋愛においてさえ自虐さえしておけばいい、という指針を失ってしまったから。
それまで東にとって萌えの問題は親子問題と別々だったが、震災が来て、日本全体について真剣に考えなければいけなくなったとき、その2つが結びついてしまい、自分が何の解決策も持っていないことに気づき、茫然自失としてしまったのである。
これが東にとっての震災である。
まただから宇野が要らなくなり、以降、たもとを分かっていった。
まとめ
結論が出た。
ここまでを要約するとこうなる。
彼はオタク評論家であるがゆえ萌えをテーマとして活動してきて、それは実態として親子間の問題でもあったが、恋愛のみの問題だと誤認した。結果、2つの問題を1つに閉じ込め、恋愛の問題を2倍重く捉え、過剰な自虐(自虐ナルシズム)に陥った。結果、それが表れた「AIR」の実態をも捉えそこね、それをめぐる宇野や声優の問題をも捉え損ね、萌え論・オタク評論から離れていった。
だがこのまとめはあくまで「ここまで」のものである。
なぜなら、これは直接的には東批判であるものの、彼以外への批判でもあるからだ。
たとえば宇野がそうで、「AIR」をめぐって声優の話を出していないのは彼もまたそうだし、それはほかの批評家もそうだ。
東にとって萌えは「自虐」で、宇野にとっては「他虐」だが、どちらにも根拠がない。
クラスの女子や親といった、そこで批判の源泉となっている主体は、実際には批判などしていない、ただ萌えについて黙っているだけだ。
萌えヲタは自虐、燃えヲタ(アンチ萌えヲタ)は他虐で語り、一般人は無視するだけである。
なのに両者(東・宇野)はともに、世間も前者を批判していると錯覚してしまったのだ。
宇野の加害性
だから宇野もまた愚かである。
さらに言うと、宇野にとってさえそれは広く言えば「自虐」なのだ。
なぜなら「萌え=日本=日本人=宇野」となるからだ。
宇野が無根拠に東を叩いたのも、彼が「萌えなどという恥ずかしいものがある日本に生まれて恥ずかしい」と考えたからで、東はそこで「だから俺が悪いんだ」となり、宇野は「だからあいつが悪いんだ」となる、というだけのちがいに過ぎない。
さらにいうと、これだけだと罪の重さにおいて「東=宇野」のように思えるが、実際は「宇野>東」である。
東は確かに「萌え=オタク」から逃げ、「ネット」からも逃げ、「テレビ」に逃げ込んだ*7が、それを言えば宇野もそうである。
そして東が出ていたのは所詮深夜番組に過ぎないが、宇野が出ていたのは全国区のワイドショーである。
萌え・声優・ネットからの逃避の距離で言えば、宇野のほうが10倍(視聴率比)もある。
さらに東のそれは自虐だから「被害者は実在しない*8」が、宇野のそれは他虐だから「東という被害者がいる」のである。
宇野にとやかく言う筋合いなどない。
東の自己認識
だからこの論考は決して東を責めるものではない。
いや無論仕事のずさんさを批判しはするが、人格を責めるものではないのだ。
それどころか宇野の人格は批判されるべきである。
実際、東ほど萌えに寄り添った批評家はいなかったし、だからこそ宇野からの謂れなき批判を受けた。
冒頭の「ぼくは第三世代オタクを背負う」発言を思い出せばいい。
彼はこの世代を「新世紀エヴァンゲリオン」の視聴者に代表させているが、その劇場版2話の一方のタイトルが「AIR」であり、だから彼は「AIR」を代表とする美少女ゲームの批評に乗り出した。
そして東が彼らについてはじめて論じたのが「動物化するポストモダン」であり、この第2弾が「ゲーム的リアリズムの誕生」なのだが、そこに「AIR」論は載っているが、「CLANNAD」論は載っていない。
むろんそれ以外は逃げたが、これは批評本であり、彼は自らの第一義を批評家としているのである。
東は肝心なところで「AIR」=「本分=オタク批評」から逃げていないのだ。
東の本当の迷走
逆に言えば「CLANNAD」は東にとって特別な作品ではない。
それは彼が当時結婚したから論じたもので、自分の人生コースに沿った作品を論じなければと思っただけの、空虚な義務感から来たものだ。
「AIR」では自分の人生とがあまりにズレているので、何か対策をしなければと思ったわけだ。
だが論じてしまったから、迷走はしている。
迷走しているが、逃げてはいない。
これは矛盾するため、こう言い換えよう。
東は「AIR」文脈=批評家としてはオタク論から逃げていないが、「CLANNAD」文脈=それ以外としては逃げた。つまり東浩紀という一人の表現者、全体として見たとき、その2つに引き裂かれ、迷走していた。
そしてさらに迷走の理由は言い換えるとこうなる。
自分がアンチの差別にも負けず、オタク論、萌え論を第一義においている真っ当な批評家であると自分自身で気づかず、自虐ナルシズムに陥ってしまったため。自分の力を過小評価したため。
このように確認してみれば、宇野など吹けば飛ぶような存在でしかないことがわかるだろう。
よって東にまったく非がないわけではないし、この無自覚ゆえ迷走は悪化していったのだが、それを責めることは誰にもできない。
彼以外にこの問題に悩んだものはいないし、当然、彼以上の答えを出したものもいない。
最高得点者の不正解をなじれる者などいないのだ。
*1:やや蛇足的に言っておくと、この声優無視はアニメ軽視でもあり、彼が手がけたアニメ「フラクタル」が失敗に終わったことの遠因になっていることがわかるだろう。彼は批評家・雑誌編集者・小説家・脚本家など、さまざまな側面の失敗を抱えているのだ。
*2:むろんコギャル擁護をした宮台真司の影もそこにちらつきさえするだろう。
*3:これは先ほどの「クォンタム・ファミリーズ」には主人公が性犯罪者であるという描写がなされているが、それがなぜなのかという問いにも置き換えられる。
*4:でないと「AZM48」などという、あんなふざけたものは撮らないだろう。
*5:だからレイプファンタジーとは次のように定義すべきだとわかる。「ファンタジーである(実行していない)レイプについて反省してみせ、不当に自己の社会的評価を上げること」。
*6:同様にこうも言える。「現代の日本の高校生活をリアルに描いた」と評判の作品というのがあり、男性向けなら小説「桐島、部活やめるってよ」、女性向けならマンガ「アオハライド」だが、それらの評価が嘘であるのは、作中に一切、萌えヲタ・声優・声優志望といった人物が登場しないからだ。これは岡田斗司夫が岡崎京子のマンガ「リバーズ・エッジ」において、「オタクが登場しない」と批判したのと同じもので、その悪しき進化形だ。
*7:注意すべきは、これは「一般人にアピールするな」という意味ではない。東(ら)のこれが問題なのは、「萌えを批判してくる主体」という虚構の一般人を想定しているからだ。